« 新年を賀す | トップページ | 小僧が見た奇妙な夢 其の一 »

2006年1月 8日 (日)

秩父祭 其の五

Simg_5656 豪華な彫り物や引き幕で飾られた屋台や笠鉾、土地の人々による歌舞伎芝居や曳き踊り、そして澄み切つた夜空を焦がす澤山の花火と、秩父祭に見所は多いのだが、その祭りを他の祭りとは異なつた独特の雰囲氣のあるものに仕立て上げてゐるものとして忘れてはならないのが屋台や笠鉾の中で奏されるお囃子、所謂秩父屋台囃子である。これを抜きにして秩父祭を語るわけにはいかないだらう。

何故なら、秩父の屋台囃子のやうな、芸術性があり、一つの音楽として成り立つてゐて、その演奏にぢつと耳を傾けてゐたいと思ふやうなお囃子はなかなかあるものではないからである。たいてい、祭りのお囃子と云ふと、メロデイやリズムがシムプルで、それはあくまでも祭りのお囃子でしかなく、文化的に価値はあるものの芸術的にどうのかうのと評するやうなものではないのだが、秩父の屋台囃子はそのやうなものと質を異にしてゐて、その優れた音楽性は、能楽の影響を強く受けてゐて芸術性の高い尾張地方の山車囃子に勝るとも劣らないものと云へるだらう。などと、その道の専門家でもない小僧は、秩父の屋台囃子を大いに氣に入つてゐるが故に、一人勝手にさう思ひ込んでゐるのだが、その考へはあながち間違つてゐるとも云へないのではなからうか。

秩父の屋台囃子は普通大太鼓一つ、小太鼓三つ、それに鉦と笛といふ構成で演奏されるのだが、同じ埼玉でも川越や飯能などで演奏される江戸系のお囃子とは全く異なつてゐて、秩父地方独特のお囃子と云つてよいだらう。そして、そのお囃子の主役を務めるのが何と云つても大太鼓で、十六ビートを刻むやうな小太鼓の速くて小氣味よい音に合はせて、土地の若者が極めて熱情的にこれを叩くのだが、この大太鼓だけはその叩き方が最初から決められてゐるわけではなく、そのほとんどが即興によるものだといふ。

もちろん基本的なところは先人の叩き方を踏襲してゐるわけだが、それを充分消化し、自分流のものに練り上げて演奏してゐるところがミソで、それは云ふならばヂヤズと同じやうな即興演奏、つまり自分といふ人間を表現する演奏になつてゐると云つてもよく、だからこそ、そこに人の耳を惹きつける力がある、云ひ換へるならば、そこに秩父の屋台囃子を普通の祭り囃子とは違ふ、芸術性のあるものに成らしめてゐる理由がある、といふことになるのではなからうか。

そのやうなわけで、今回もその聴き応えのある屋台囃子、耳を傾けてゐるこちらのはうまで鼓舞されて胸の中が自然と熱くなるそのお囃子を大いに満喫したいと思つてゐたのだが、今年の秩父祭はめでたいことにと云はうか生憎のことにと云はうか、祭りが始まつて以來最高の人出といふ話もあるくらゐの賑はひで、曳行中の屋台や笠鉾に密着できる機会があまり無かつたことから、充分にそれを聴くことが叶はず、その点においても少々不満の残る結果になつたのであつた。

そこで、來年こそはと思ひつつ、依然として寒空に次から次へと花火が弾けてゐる秩父を後にしたのだが、屋台に轢かれてスルメイカのやうになつた体はふらふらしてゐて思ふやSimg_5720 にコントロールできず、なんとか西武秩父の駅まで辿り着いたまではよかつたが、ぎゆうぎゆう詰めの池袋行き電車に乗つた時に大勢の人によつて更にもみくちやにされ、挙げ句の果てには太つたおばさんに押し倒されたところに酔つ払ひからゲロを浴びせられる始末、いやはや、その日は運氣が最悪の日なのか、とんだところで散々な目に遭つたのであつた。

底冷えの闇を揺るがし太鼓過ぐ  神楽小僧

(了)

|

« 新年を賀す | トップページ | 小僧が見た奇妙な夢 其の一 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/126829/8054588

この記事へのトラックバック一覧です: 秩父祭 其の五:

« 新年を賀す | トップページ | 小僧が見た奇妙な夢 其の一 »