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2006年6月27日 (火)

筒井町出來町天王祭 其の一

Simg_0714_1  西枇杷島で朱藍坊にせがまれて立ち並んでゐる屋台の食べ物をたつぷり奢らされる羽目になつた小僧であつたが、ふうー、おなかがいつぱいになつた、ちよつと一休みしよう、と云ひ出した朱藍坊が六軒町通りの脇に設けてあつたテントの中の椅子に座るなりそのまま大きな鼾をかきながら寝入つてしまつたのを幸ひに、そこから抜け出して、名鉄電車と地下鉄を乗り継いで次に向かつたのが名古屋の東區の筒井町であつた。その日は筒井町とその筒井町と隣り合ふ出來町においても小僧の好きな山車祭りが行はれてゐたからである。

筒井町と出來町の祭りはともに、疫病除けの神である祇園精舎の守護神の牛頭天王(ごずてんわう)に悪疫が流行しないように祈願する、いはゆる天王祭と呼ばれる祭りで、筒井町では二輌、出來町では三輌と合はせて五輌の豪華な山車が六月の最初の週末に盛大に曳き廻される。それらの山車は江戸時代から受け継がれてきた伝統と歴史のあるもので、いづれも尾張地方の山車に特徴的なからくり人形を搭載してをり、名古屋の閑静な下町を、時には優雅に、時には勇壮にと曳き廻されるのである。といふわけで、同じ日に行はれるその二つの祭りは名古屋の初夏を彩る一つの風物詩と云つてよいものだが、小僧も、毎年それが近づくにつれなんとなくそはそはしてしまふ、それほど楽しみにしてゐる祭りなのである。

その二つの天王祭の主役は先に述べたやうに何と云つても五輌の山車だが、その山車のことをまう少し詳しく説明しておくとしよう。筒井町の二輌は神皇車(じんくわうしや)と湯取車(ゆとりぐるま)、出來町の三輌は新出來町(西之切)の鹿子神車(かしかじんしや)と出來町(中之切)の河水車(かすいしや)と古出來町(東之切)の王羲之車(わうぎししや)であるが、戦後新たに再建された王羲之車意外は全て江戸時代に建造されたものといふ。ただ、その江戸時代に造られた古い山車も、その全ては元々その町にあつたものではなく、その昔他の町から買い取つたり、譲り受けたりしたものと云はれてゐる。

話は少々横道に逸れるが、江戸時代、名古屋には三大祭りと云はれるものがあつた。東照宮祭、若宮祭、三之丸天王祭の三つである。そして、それぞれの祭りを豪華絢爛で賑やかなものにしてゐたのが当時そこに曳き出されてゐた澤山の山車であつた。尾張徳川家の代々の藩主は大体において山車祭りが好きだつたのである。といふわけで、戦前まで名古屋には江戸時代から受け継がれてきた澤山の山車があつた。だが、太平洋戦争終結の僅か三箇月余り前の空襲によつてその多くが焼失してしまひ、それまで続けられてゐた東照宮祭、若宮祭は必然的に寂れてしまつた(三之丸天王祭は明治になつて中止された)。戦争によつて大きな痛手を被つた町は祭りどころではなかつたから、戦災を免れた山車もその多くは廃棄されたり何処かへ賣り飛ばされてしまつた。

Simg_0695 つまり、名古屋の由緒ある山車祭りは戦争によつて壊滅的状態に追ひ遣られてしまつたのである。だが、幸ひにも筒井町や出來町の山車祭りはそこから生き残り、様々な困難を乗り越えて今も続けられてゐる。そのやうな意味では大変貴重な祭りと云へるだらう。

最近は都会の空洞化、核家族化によつて都会の祭りを継続することがだんだんと困難になつてきてゐる。また、なんとかフエステイバルとか、なんとか祭りとか、訳の判らない商業主義的な祭りが多く催される一方で本來の祭りが蔑ろにされることが多くなつてきてゐる。そのやうな状況の中、筒井町や出來町では、現代人の生活から遠く離れていかうとする祭りが懸命に、それを手繰り寄せるやうにして続けられてゐるのである。

山車提灯闇に溢れて桃のごと  神楽小僧

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