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2006年7月 3日 (月)

筒井町出來町天王祭 其の二

Simg_0509 名古屋駅から地下鉄桜通り線の今池方面行きに乗り、五つ目の車道駅で降りて長い階段を傳つて地上に出ると、そこには名古屋特有の幅の大変広い大通りが東西に走つてゐる。そして、その大通りの直ぐ北側に筒井町があり、その筒井町から更に北に行つた所に出來町がある。

筒井町は江戸時代、武家屋敷と商人の町として栄えたと云はれてゐる。しかし、今は町の中に武家屋敷や古い商家は全くと云つてよいほど残つてゐない。昔の面影を残してゐた建物は現在その殆んどが住宅や商業ビルなどに建て替へられてゐるか、あるいは取り壊されて大学や高校や區役所の敷地となつてゐるのである。

だが、お寺だけは例外と云へるだらう。筒井町には幾つかの寺があるのだが、その寺の中でも東區の區役所の隣にある建中寺といふ古刹は町のシムボル的存在となつてゐるのである。この寺は江戸時代初期、尾張徳川家二代目の殿様の徳川光友が父である藩祖義直を弔ふために創建したもので、その歴史のある建物と広大な敷地を誇つてゐるのだが、その境内の南半分が公園になつてゐて、この公園の前に筒井町商店街が広がつてゐる。そして、天王祭の日には、この公園に澤山の屋台が並び、商店街の通りは賑やかな山車の花道となるのである。

一方、出來町は江戸時代、職人の町として栄えたと云はれてゐるが、やはり武家屋敷も多かつたやうである。ここも筒井町と同じやうな運命を辿つてゐるのだが、筒井町と少し違ふのは、ナゴヤドームやJRの大曽根駅が近い所為もあつて、将來再開発が進められることが考へられ、いつの間にか町全体がすつかり変はつてしまつてゐる、そのやうな可能性が残されてゐる点であらうか。

この出來町にはその昔広大な敷地を持つ尾張徳川家の下屋敷があつたのだが、その屋敷跡に築かれたものに私立公園の徳川園がある。徳川園は、その中に有名な徳川美術館があるので知られてゐる。徳川美術館には尾張徳川家に傳へられる重宝や国宝の『源氏物語絵巻』が納められてゐるのだが、徳川園の中には他に、家康から藩祖義直が譲り受けた澤山の書物を納めた蓬左文庫といふ図書館や、江戸時代の大名庭園を再現した池泉廻遊式の日本庭園もあり、ここは一つの観光スポツトになつてゐるのである。

そして、今年の天王祭の本楽の日には、その徳川園の中に四輌の山車が勢揃ひしたのであつた(筒井町の神皇車だけは事情があつて参加しなかつた)。筒井町や出來町の山車は今までは各町内を曳き廻されるだけであつたのだが、去年から徳川園の中にも曳き入れられるやうになつたのである。何故そのやうなことになつたのかといふと、前にも幾らか述べたやうに尾張徳川家と名古屋の山車は関係が深いからなのである。

Simg_0510 江戸時代初期、藩祖徳川義直によつて東照宮祭が始められて以來、代々の尾張藩主は大体において山車祭りを奨励してゐて、東照宮祭や三之丸天王祭においては名古屋城の三之丸に山車が曳き込まれ、それを殿様がわざわざ御覧になる、などといふことが慣例となつてゐた。そして、そのやうな行事が明治維新まで続いてゐたのである。

したがつて、そのやうなことを考慮すれば、わざわざ徳川園に山車を曳き入れるといふ行為も充分意味のある行為であるといふことが容易に理解できるであらう。つまり、それは三之丸に山車を曳き込んだ昔の祭りを模したものであると同時に、殿様たちが愛した山車祭りを今でもこのやうに続けてゐますよ、といふ今は亡き徳川の殿様たちへのメツセーヂなのでもある。

迷ひ子のアングル迷ふ写真馬鹿(小僧のことです)

神楽小僧

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