カテゴリー「祭り紀行」の記事

2009年11月12日 (木)

或る祭の風景二〇〇九

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2009年10月27日 (火)

犬山お城まつり車山揃二〇〇九

Simg_6017jpg33 十三輌の車山(やま)が国宝の城を擁する城下町を練り歩く犬山祭は春に行はれるが、数年前から秋にも一日だけその車山が曳き出されるやうになつた。秋の行楽客を増やさうといふ意図のもとに犬山市が名鉄とタイアツプして始めた「秋の犬山キヤンペーン」といふ企画を盛り上げるためである。つまり、この秋の車山の曳き廻しは祭禮の行事ではなく、イベントの一つの催し物といふ性格のものである。

だが、犬山祭に欠くことのできない桜は観られないものの、春と同じやうにからくりは全て行はれ、提燈を飾り附けて夜の街を巡行する夜車山(よやま)も観られるといふことで、犬山祭の車山に特別な感慨を抱く者にとつて、この「秋の犬山お城まつり車山揃」とタイトルされた催し物が毎年行はれるといふことは理屈抜きに歓迎すべきことと言つてよいであらう。

それに、この秋の車山の曳き廻しでは、春には見られなかつた光景を眼にすることができるから、見物するはうとしては尚更である。どういふことかといふと、春は混雑を緩和するために十三輌の車山が北組と南組に分かれて夜車山を行ふが、秋は城前広場に全ての車山が揃ひ、一斉に提燈の灯を点すのである。

そして、上に掲げた写真でなんとなく判つてもらへるのではないかと思ふが、そのときの光景はとても壮観で美しく、祭りに関心が無い人でも、それを眼にしたなら、必ず何かしらの感動を覚えるに違ひないであらう。因みに、提燈は全て和蝋燭を使用してをり、そのスペクタクルな光景は江戸時代の初めから人々の眼に焼き附けられてきたものなのである。

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2009年9月 1日 (火)

浅草サンバカーニバル2009

Simg_4741 このブログにおける検索フレーズで最近圧倒的に多いのが浅草サンバカーニバルに関するものである。今年の浅草サンバカーニバルは先日の29日に行はれたばかりであるからそれも当然であるが、その開催日の一週間ほど前から検索数は徐々に増えはじめ、当日29日の夜には一日のアクセス数が1000を超えてしまつたのには少々驚いた。

詳しく云へば、このアクセスの中身は記事よりも小僧の撮つた過去の写真集に対するものがほとんどで、要するに、浅草サンバカーニバルに参加された方々が、自分の写つてゐる写真が何処かのブログにアツプされてゐるかもしれない、あれば自分はどのやうに撮られてゐるのだらう、といふ興味から当ブログに辿り着かれてをられるのではないかと推測するが、普段は訪れる人もあまり多いとは云へない所に何百人もの訪問者といふことで、サンバカーニバルの新しい記事や写真を早く載せろといふコメントは無いものの、なんとなくそのやうなプレツシヤーを感じないではゐられないのである。

といふわけで、早速ここに今年の写真集を載せようと思ふ。だが、編集する時間があまり無いので、まづは撮影した分の半分を前篇といふことでご勘弁を願ひたい。

なほ、小僧が過去に撮つた浅草サンバカーニバルの写真には一年間を通じてコンスタントにアクセスがあり、二〇〇八年の写真集は現在のべで13000を越えてゐて、二番目に多い「垂井曳山まつり二〇〇六」の約4400を大きく引き離してゐる。因みに、写真集へのアクセス総数は今のところ約120000で、これはサイド・バーのアクセス・カウンターには含まれてゐない。

浅草サンバカーニバル2009写真集前篇

浅草サンバカーニバル2009写真集後篇

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2009年8月13日 (木)

八王子まつり

Simg_3875 九日の日曜は八王子へ足を運び祭りを見物してきた。八王子は都心から移転した大学が多く存在する町で、大学の町と言つてもよいくらゐであるが、江戸時代から続く山車祭りが今でも盛大に行はれてゐる。

全部で十九輌ある八王子の山車は周りが多くの彫刻で飾られてゐるところが特徴であるが、その作りは概ね関東で一般に見られるやうなもので、その上にはそれぞれ囃子方と踊り手が乗り、町の角々で滑稽な手踊りを披露することになつてゐる。そして、夜になるとその巡行と曳き合はせが行はれ、祭りはクライマツクスに至るのである。

実を言へば、八王子の祭りを見物するのは今回が初めてであつたが、川越や秩父とはちよつと違ふ、江戸に近い農村であつた昔の風情を残してゐるやうな、イナセな部分とゆつたりまつたりしてゐる部分が混じりあつてゐる祭りを大いに楽しませてもらつた。この地域は開発がどんどんと進んでゐて人の移動も激しいと思ふが、このまま伝統ある行事を後世まで規模を縮小させることなく存続させていつてほしいものである。

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2009年4月 6日 (月)

第三百七十五回犬山祭

Simg_0752 今年も犬山祭の澤山の見物客の中の一人になりました。とりあへず犬山で最初に撮つた写真をここに掲げておきます。試樂祭のこの日は朝からどんよりと曇つてゐて、午後になると案の定雨になり、楽しみにしてゐた夜車山(よやま)は中止になりました。そんな天候の所為か氣温もあまり上がらず、写真に写つてゐる人たちもなんとなく肌寒さを感じてゐるやうに見えます。因みに写真の車山は余坂町の宝袋です。なお、祭り見物の詳細は後日に。

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2008年12月 8日 (月)

秩父夜祭二〇〇八 其の一

Simg_9855 秩父は山に囲まれた盆地なので、その冬の寒さには格別厳しいものがある。以前、秩父でタクシーを利用した時、その運転手が、春になつても五月のゴールデンウイークが過ぎるまで炬燵が欠かせない、と云つてゐたが、それほど冬は寒い。

そして、その寒さは秩父夜祭が終はるのを合図に本格的になるやうである。ネツトで眼にした句に「大霜を秩父夜祭つれてきし」といふのがあつたが、地元の人たちも、祭りの熱狂が冷めると、いちだんと寒さが厳しく感じられるのであらう。

といふわけで、寒がりの小僧は今年も秩父にはかなりの厚着で出かけた。破れの目立つジーパンはそのままであるが、セーターの上にダウンジャケツト、耳を隠すことができる帽子に厚手の手袋、といふ出で立ちであつた。だが、どういふわけか、今年の秩父はとても暖かかつた。正午少し前に西武秩父駅に着いたが、改札を出ると、雲一つ無い青空から降り注ぐ太陽の光は眩しく暖かく、頬に当たる風も冷たくは感じられなかつた。

さすがに日が落ちてからはぐつと冷え込んだが、昼間はまさにポカポカ陽氣で、町の中を歩いてゐるとダウンジャケツトが邪魔になつてしまつた。去年は秩父の町のあちこちで冬の到來を告げる綿虫が澤山飛んでゐたが、今年はそれも一匹も眼にすることはなかつた。

といふわけで、そのやうな天氣であつたから、当日は平日にもかかはらず見物客は多く、交通規制を担当する警察官の数も多かつた。そして、祭りが最も盛り上がる夜は例年と同じやうに見物行動は厳しく制限されてしまつた。だが、今年はいつにも増して祭りを堪能することができた、と云つてよい。何故なら、どうやつたら秩父夜祭を最大限に楽しめるか、そのコツが漸く判つてきたからである。(つづく)

秩父夜祭二〇〇八写真集

秩父夜祭二〇〇七写真集其の壱

秩父夜祭二〇〇七写真集其の弐

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2008年11月20日 (木)

續々或る祭の風景

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2008年10月23日 (木)

川越まつり二〇〇八

Simg_9040 十月十九日、小僧は午後から川越まつりを楽しんだ。川越は電車で直ぐ行ける所なので、小僧は毎年のやうに足を運んでゐる。川越は小江戸と云はれてゐるやうに江戸時代の面影を残した町並が有名で、大きな古人形を搭載した江戸型の山車がそんな町の中を練り歩く川越まつりはなかなか魅力的な祭りである。神田系のお囃子を聴きながら、ゆつたりとした山車の曳き廻しや手古舞に扮した女性たちの衣装などを見てゐると、江戸時代にタイムスリツプしたやうな感じで、妖怪の小僧はとても懐かしい心持ちになるのである。

しかし、見物する者からすると、秩父祭と同じやうに人出があまりにも多いのが難点である。大都市に近いから、それも致し方無いと云へるが、今年も山車が通る本通りはなかなか前へ進むことができないで閉口した小僧であつた。見物客が少なければそれはそれで寂しいが、多過ぎるのも困りものである。やはり、祭りの見物客もほどほどがよいといふことになるだらう。

それはさておき、小僧は本川越の駅から割と近い所にある神社の境内へ行くと、今年もあるだらうかと興味をもつて或るものを探したが、やはりそれはそこにあつた。それは何かといふと、前にも記事にしたことがあるが、お化け屋敷と見世物小屋である。

Simg_9105 お化け屋敷は、去年は客の注意を引くために木戸にゲゲゲの鬼太郎やねずみ男の人形が飾つてあつたが、今年はそれが無く、三つの生首を晒したものと古井戸から出たり消えたりする女の幽霊の仕掛けが施してあつた。また、見世物小屋の看板も変はつてゐて、今年は大きな文字で「生きたままヘビを食べる!?興行界最後の女芸人!小雪ちやん登場!!」と書かれてあつた。この「小雪ちやん」は何者であらうかと小僧は興味津々であつたが、入場料が六百円といふことで結局二の足を踏んでしまつた。実際に見たら、おそらく「なんだ、こんなことか」と馬鹿馬鹿しい氣持ちになつてしまふに違ひない。そのやうなものに六百円はちよつとばかり高いと小僧は思つたのである。

境内のお化け屋敷や秋暑し  神楽小僧

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2008年9月 3日 (水)

浅草サンバカーニバル2008

Simg_6773 八月三十日は久し振りに浅草へ出かけた。東京の下町、浅草の初秋の風物詩サンバカーニバルを見物するためである。もちろん、愛用のカメラを持つて行つた。

浅草サンバカーニバルの花形はなんと云つても挑戦的なまでに肌を露出して踊り狂ふサンバギヤルたちで、彼女たちを眼の前にしたら、やはり女のパワー全開のその情熱的かつ悩殺的な踊りを撮らないわけにはいかない。

実を云ふと、このところこれと云つた祭りも無く、あつても猛暑であつたり、豪雨であつたりして出かけられず、カメラを手にすることが久しく無かつたから、その日は、今日こそは思ふ存分撮るぞ、と意氣込んで出かけた。前日までの天氣予報によると、当日は降水確率70パーセントで、開催そのものが危ぶまれるほどであつたが、その日は午前中からそれが嘘のやうな晴天であつたから尚更であつた。

だが、結局、その日は思ふやうに写真を撮ることができなかつた。何故なら、例のゲリラ豪雨の執拗な襲撃を受けることになつたからである。やはり、天氣予報は幾らか正しかつたやうである。

浅草に着いたのは午後二時半頃であつた。既にパレードは始まつてゐて、雷門の前の沿道は澤山の見物客やカメラマンで埋め尽くされてゐた。当然、人混みが邪魔になつてパレードを満足に眺めることができなかつた。

だが、前回訪れた時に遭つた豆腐小僧のことを思ひ出した。その沿道にある100円シヨツプでプラスチツク製のバケツを購ひ、見物客の最後尾にそれを逆さまに置いて足を乗せた。Simg_6737 そして、そのままパレードに向けて夢中になつてカメラのシャツターを押し続けた。

だが、そのまま満足のゆくまで撮り続けることはできなかつた。憎らしいゲリラ豪雨の所為である。急に辺りが暗くなつたかと思ふと、アスフアルトをビシビシと叩きつけるやうな大粒の雨が突然どつと降つてきたのである。そして、それは一度止んだかに見えたが、直ぐに第二弾、第三弾と容赦無く襲つてきて、やがて雨の勢ひは衰へたものの、その後もシトシトと降り続き、一向に止む氣配がなかつた。

結局、豪雨のおかげで、眼の前の見物客がさつと散つて視界がぐんと開け、土砂降りにも拘はらず嬉々として踊つてゐるサンバギヤルを間近に見ることはできたが、小僧自身ずぶ濡れになるのを避けるために小さな折り畳み傘の下に体を縮めなければならず、それ以上カメラをパレードの中に向けることは残念ながらできなかつた。

しかし、撮つた写真はかなりあり、お見せできるやうなものが何枚かあるので、ここにそれらを公開しようと思ふ。興味のある方はご覧あれ。
http://qwanglla.cocolog-nifty.com/photos/asakusasamba2008/index.html

※因みに前回(2006年)撮つた写真はこちらに。

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2008年6月13日 (金)

犬山祭二〇〇八 其の三

Simg_3822 犬山の住民が新しく当選した市長と一緒になつて県や建設省が主導する道路整備事業計画を中止に追いやつたといふ話を聞いて小僧は少しばかり驚いた。何故なら、犬山の住民にそのやうな行動を起こすバイタリテイがあるとは少しも思つてゐなかつたからである。

国宝犬山城のある犬山は、昔はその犬山城に住む成瀬氏が支配してゐたが、今は名古屋鉄道、いはゆる名鉄が支配してゐる、といふ皮肉を込めた云ひ方があるが、実際のところ、犬山は名鉄の町と云つてもよい。

何故なら、それがよいか悪いかは別として、名古屋のベツドタウンとして、同時に観光の町として、これまで犬山を発展させてきたのは名鉄だからである。特に観光面においては、鵜飼やライン下りを運営する傍ら、明治村やリトルワールドなどの大規模なテーマパークを作り、犬山城だけが目玉であつた犬山に多くの観光客を呼び込んできた。

といふわけで、犬山市もその名鉄の意向に沿ふやうな形で市政を進めてきたのは当然のことであつた。住民も、名鉄に任せておけばなんとかなる、名鉄が犬山に利益をもたらしてくれるだらう、そのやうな思ひでこれまでは過ごしてきた。つまり、住民自らが町おこしを図るといふことはこれまで無かつたのである。云ふならば、犬山の住民は、飼い慣らされておとなしくなり、鼠を捕ることもできなくなつた猫のやうなものであつた。

それに、かつて城下町であつた旧市街は最近は空洞化が激しいと聞く。市の人口は郊外の開発が進んで増加してゐるが、古くから犬山に住み続けてゐる人は反対にだんだんと少なくなつてきてゐるやうである。となると、犬山の住民の間の連帯感も希薄になつてゐる筈である。

といふことで、そのやうな犬山の住民、特に旧市街の住民が今度のやうな積極的な行動を起こしたことは小僧にはとても意外なことであつた。と同時に、その話を聞いて嬉しくもあつた。犬山は小僧が生まれ育つた町だから、小僧は今でも犬山の町に対しては特別な感情を抱いてゐる。開発などによつて、犬山の町から昔の風景がどんどんと無くなりつつあるといふ話を聞けば心を痛めずにはゐられないのである。したがつて、今回の騒動が先に述べたやうな結果に落ち着いて安心すると同時に、自分たちの町のことを真剣に考へて行動した犬山の住民が澤山居たことに少なからず感動を覚えたのであつた。

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2008年4月30日 (水)

犬山祭二〇〇八 其の二

Simg_2859 犬山の町も一昔前に較べるとその風景は随分と変はつてしまつた。小僧が住んでゐた頃、犬山の人口は三萬五千人くらゐであつたが、今は七萬人を超えてゐるからそれも当然か。だが、そんな町でも、祭りの車山(やま)が練り歩く通りの町並だけはあまり変はつてゐない。車山が練り歩く通りといふのは、つまり、その昔城下町犬山のメインストリートであつた所である。そこには、昔から住み続けてゐる人は少なく、古い家が取り壊されてゐる所もあるが、昔の町並の趣は依然として強く残つてゐる。

特に、針綱神社から南へ伸びてゐる本町通りは古民家が結構残つてゐて、高山の町並を思い起こさせるほどである。これは、昔の町並を保存していかうといふ町の人たちの努力が功を奏してゐるからであらう。犬山では今、道幅をむやみに広げることもなく、古い民家などを取り壊さずそのまま活用していかうといふ取り組みが為されてゐるのである。

聞くところによると、このやうな運動は行政からではなく、住民の側から起こされたものといふ。むしろ、行政はその反対で、当初は、町を整備するために、古い町並を取り壊し、道路を大幅に拡張しようといふ計画を立ててゐたらしい。つまり、新しい商業施設中心の町作りによつて町の活性化を図らうといふ考へであつたやうだ。

だが、住民のはうがこれに異を唱へた。愛着のある古い町並がすつかり変はつてしまふ。広い車道によつて町が分断されれば地域の結びつきが無くなつてしまふ。さうなれば、犬山祭の車山を出してゐるそれぞれの町の独自性も連帯感も無くなり祭りの存続が危うくなる。といふ理由からであつたといふ。

そのやうな声が強くなつて行政の整備計画は中止に追い込まれた。そして、今のやうな古い町並を活かした町作りの方向に転換する結果になつたといふ。新たに市長になつたI 氏が住民の側に立つて政策を推し進めたのも大きな要因となつたやうだ。(其の三に続く)

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2008年4月19日 (土)

犬山祭二〇〇八 其の一

Simg_2755 例年、犬山祭は雨に祟られることが多い。祭りは四月の第一土曜日曜に試楽祭、本楽祭と二日間に渡つて行はれるが、二日間とも晴天であつたことはまづ無い。何故なら、四月の上旬は丁度菜種梅雨の季節で天氣が変はりやすいからである。といふことで、犬山祭を二日間見物してゐれば、ビニールシートに覆はれながら雨の中を曳かれて行く車山(やま)を必ず一度は眼にすることになるのである。

ところが、今年はどういふわけか二日間とも晴天であつた。雨が降る氣配さへ無い、そんな好天に恵まれた。これは奇跡的と云つてもよいくらゐである。それに、当初は早く散つてしまふのではないかと心配された針綱神社周辺の櫻も祭りの日までなんとか怺(こら)へてくれて、当日は花吹雪の状態になつたから、今年の犬山祭はその祭りを盛り上げるために欠かすことのできない二つの条件を完全に満たすことができた。

櫻と青空、犬山祭にこの二つがあれば何も云ふことは無い。例年なら、雨の降りやすい天候のために、夜車山(よやま)と呼んでゐる夜の車山の巡行は二日間続けて見ることは難しいのであるが、今年、小僧は両日ともそれを最初から最後まで完全に見届けることができた。ぽかぽかとして陽氣もよく、夜の街を歩いてゐても肌寒くはなかつた。といふわけで、今年、人出が多く混雑はしたが、小僧は犬山祭を存分に堪能したのであつた。だが、このやうなことは久し振りのことであつた。

山車囃子やみて激しい落花かな 神楽小僧

注:写真は4月5日撮影

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2007年12月 8日 (土)

秩父夜祭二〇〇七

Simg_2268 今年も十二月の二日、三日は秩父へ足を運んで、その夜祭を楽しんだ。二日の日曜が宵宮で、三日は平日ながら本祭であつた。だが、今年は両日とも夜遅くまで秩父の町をぶらついてゐることはなかつた。

二日は夜に都内で贔屓にしてゐるミユージシヤンのコンサートがあつたので、秩父に居たのは五時頃まで。三日は、夜になると厳しい規制のため御旅所に向かふ屋臺や傘鉾をじつくり観られないことが判つてゐるので、後ろ髪を引かれつつも、七時を過ぎると直ぐに池袋行きの電車に乗つてしまつた。

といふわけで、夜の祭りが盛り上がりを見せる頃には秩父に居なかつたから、先に述べた「夜祭を楽しんだ」といふ表現は適当ではないかもしれない。だが、昼の屋臺の曳き廻しや、それぞれの屋臺における曳き踊り、屋臺芝居(今年は中町が当番)などは充分観て楽しむことができて、花火も短い時間であつたが見物したから、祭りはそれなりに堪能できたのではなからうか。

事前の天氣予報によると、本祭の日は雨といふことであつたが、それが外れて両日とも好天に恵まれたのもよかつた。風も無くて、例年より比較的暖かつたから、それだけ行動し易く、より祭りが楽しめたと云つてもよいであらう。秩父太鼓の響きもいつもより心地よかつたやうに思ふ。

話は変はるが、そのやうに風が無く穏やかであつたから、秩父では町の中で綿虫を澤山見かけることになつた。綿虫といふのはワタフキアブラムシ科の虫の総称で、小さな綿のちぎれのやうになつて空中をふわふわ飛ぶことから、その名が附いてゐる。それを見かけるのは晩秋から初冬にかけてで、風の無い静かな日に飛んでゐることが多い。別名、大綿とも云ふが、地方によつては、雪虫、雪蛍、しろばんばなどと呼ばれてゐて、これが飛ぶと雪が降ると云はれてゐるらしい。尚、今年も写真だけは澤山撮つたのでご覧あれ。

綿虫は秩父太鼓の宙に舞ひ  神楽小僧

秩父夜祭2007其の壱写真集

注:上の写真は12月3日撮影

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2007年8月14日 (火)

熊谷うちは祭

Simg_3829_2 七月二十二日の日曜は、埼玉県の北部にある熊谷に足を運んで、地元の人たちから「うちは祭」と呼ばれてゐる熊谷八坂神社の夏の祭禮を見物した。名前が示す通り熊谷八坂神社は京都の八坂神社の末社で、うちは祭りは祇園祭と同じやうに疫病退散を祈願して古くから行はれてきたものであるが、近年は山車や屋台が建造されて曳き廻されるやうになつて、関東で一、二を誇る盛大な祭りとなつてゐる。小僧が訪れた日も、真夏日といふことで昼間はさうでもなかつたが、日が傾くにつれて祭りを見物しようといふ人がどんどんと町に溢れてきて大変な混雑ぶりであつた。

この祭りが何故「うちは祭」と呼ばれるやうになつたかといふと、江戸時代、祭りの日に熊谷のそれぞれの商店は客に赤飯をふるまつてゐたのであるが、或る料亭の主人が手数のかかる赤飯の代はりに江戸から買ひ入れた渋うちは(薄く渋を引いて丈夫にしたもの)を客にふるまつたところ、それが評判になり、その後、各商店のほとんどが赤飯の代はりにうちはを出すやうになつたためといふことらしい。

しかし、この祭りの由來の話を聞いた人の中には、それを不審に思ふ人も居るに違ひない。「商店の客には赤飯よりもうちはが好まれた? それはおかしいだらう」と。尤もな話である。だが、熊谷といふ町をよく知つてゐる人には合点がゆく話であらう。熊谷はとにかく夏は暑いのである。内陸の盆地にある町であるから仕方が無いのであるが、同じやうな地形にある甲府や前橋よりも暑いと云つてもよいであらう。毎年、盛夏になると、「今日の熊谷は××度でした」などといふ台詞がニユースでしばしば流れるのをご存知の人も多いのではないだらうか。

といふことで、熊谷では「夏は赤飯よりもうちはが好まれる」といふことになるのであるが、実際、小僧が訪れた時も大変な暑さであつた。そして、「うちは祭」といふ名称その通りに、町で見かけた人はみんなうちはを動かしてゐるのであつた。うちはを仰ぎながら露店の並んだ通りを歩いてゐる浴衣姿の女の子たち。日陰でうちはを持ちながら涼んでゐるお年寄りの人たち。うちはを動かしながら露店で物を賣つてゐる人たち・・・などなど。勿論、その人たちの持つてゐたうちははほとんどが貰ひ物であつた。と云つても、昔のやうに商店で貰つたものではない。路上に立ちながら宣傳目的で配つてゐる人から貰つた、表裏に広告の印刷されたうちはである。

Simg_3833 小僧も少し歩いただけで直ぐにうちはを二、三枚手に入れることになつてしまつた。うちはなどは一つでよいから断ればよいのであるが、さうもいかない。相手はうちはを配ることが仕事。それも短時間に終へたいわけであるから、それに協力してやらないと、といふ考へが働いて、なかなか断れない。差し出されるとつい貰つてしまふのである。

その後、ほどなくして、町の真ん中で八坂神社の出張所のやうなものに出くはしたので、賽銭箱に小銭を投げ入れて柏手を打つたのであるが、すかさず側に居た巫女さんがそのお礼としてくれたのが、これまたうちはであつた。表には「武州熊谷、うちわ祭、八坂神社」と大書されてあつたが、裏はやはり広告が印刷されてあつた。

といふわけで、その日澤山のうちは、それもいろいろなデザインの施されたうちはを、意に反しながらも小僧は手に入れたのであつた。だが、宣傳が目的とは云へ、折角くれたうちはを一つなりとも無駄にするわけにはいかない、任務を果たさないうちに捨てられるのでは、うちはが可哀想だ、と小僧は考へた。そこで、両手でそれらのうちはをいつぱいに広げて持ち、一度に全てを動かして、目一杯大きい風を自分に送りながら祭りを見物したのであつた。

カラフルな風の心地の団扇かな  神楽小僧

注:写真は7月22日撮影

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2007年7月30日 (月)

久喜の天王様

Simg_3794 埼玉県の東部に久喜といふ町がある。池袋からJRの快速電車で四十五分くらゐの距離にあり、東京を中心とするドーナツツ化現象のドーナツツの外側の皮の部分に当たる町であるが、周辺の多くの町と同じやうに、かつて天領の農村であつた町が東京のベツドタウンと化しただけの、特にこれと云つた特色の無い町である。だが、久喜を久喜とならしめてゐるアイデンテイテイーのやうなものがあるとしたら、それはこの町に江戸時代の天明の頃から傳はる「久喜の天王様」と呼ばれる山車祭りであらう。

「天王様」や「天王さん」と呼ばれる天王信仰の祭りは日本各地にあり、その中には山車を曳き廻すものも多いが、久喜の「天王様」はそのやうな山車祭りとはかなり趣が異なつてゐる。山車は上勾欄に大きな飾り人形を乗せた江戸型で、近辺の本庄や川越の山車とは四輪であるほかは余り変はりが無く、昼の曳き廻しやお囃子もそれらと大きな違ひは無いが、夜の山車の曳き廻しがかなり大がかり、かつ一味違ふ勇壮さを感じさせるもので、その祭りを大変ユニークなものにしてゐるのである。

どこが大がかりかといふと、夜になると七輌ある山車に提燈を附けて町の中を曳き廻すのであるが、その提燈山車が全て約五百個もの提燈を飾りつけた、かなり大きな代物なのである。普通、山車に五百個もの提燈を飾りつけるのは並大抵のことではない。それが江戸型の山車なら尚更である。だが、久喜では、人形や引き幕を降ろした山車の周りに、ちよつとしたプレハブ住宅の骨組みのやうな大きな角柱型の木の枠組みを作り、その枠組みに提燈を飾りつけることによつてそれを可能にしてゐるのである。同じやうな形態の山車祭りに有名な福島県の二本松の提燈まつりがあるが、この久喜の提燈山車はその二本松の提燈山車を更に大きくしたものと云へば判りやすいだらう。

そして、この提燈山車の提燈の明かりは、最近多くの山車祭りで利用されてゐるやうな電球によるものではなく、傳統を重視してのことか、二本松と同じやうに全て蝋燭を使用してゐて、そのことがこの祭りを一層魅力のあるものにしてゐるのである。どういふことかと云ふと、もともと蝋燭を使用した提燈の明かりは、日本人の心に何かを訴へるやうな、温かみのある魅惑的な光を放つのであるが、それを大量に纏つた久喜の提燈山車は、「提燈の要塞」と云つてもよいやうな迫力のある外観を呈してゐながら、打ち揚げ花火のやうな心の和む、抱擁感のある美しさを感じさせるので、それを観る者の心を捉へて放さないのである。

といふわけで、久喜の「天王様」は別に「久喜の提燈祭り」とも云はれてゐて、そんな提燈だらけの大きな山車を、地元の若者たちが力を合はせて、関西のだんぢり顔負けの速度で曳いたり、廻り舞台形式になつてゐる山車の構造を利用して、回転木馬が廻るやうな速度で何回も提燈の枠組みを回転させたりしながら、町中を勇壮に曳き廻すのである。

提燈の城を曳きけり久喜祭  神楽小僧

注:写真は七月十八日に撮影。クリツクすると拡大できます

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2007年7月29日 (日)

續或る祭の風景

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2007年5月22日 (火)

浅草三社祭の大行列

Simg_1303jpg3 東京の初夏の風物詩と云ふべき浅草三社祭であるが、今年から神輿の上に人が乗ることが禁止されることになつた。「神輿に人が乗ることは神霊を汚す行為」といふ理由で神社側から強い要請があつたからである。昨年、澤山の人間が乗つたために神輿が地面に落ちて担ぎ棒が折れるといふ事故があつたが、そのことも大いに影響してゐるのであらう。

だが、先日行はれた三社祭では、やはりと云ふべきか、かなりの人がその神輿乗り禁止令に素直に従はなかつたやうである。今年の『宮出し』で神輿に人が乗れば来年の『宮出し』は中止にするといふ神社側の通達があつたにもかかはらず、その『宮出し』において神輿に乗る者が続出し、中には警察官の制止を聞かずに神輿に乗つたといふことで、迷惑防止条例違反で逮捕される者も出たといふことがニユースなどで報じられてゐる。

祭りの当日、家でテレビを見てゐたら、ニユースの中で神輿乗り禁止令に不服な人が「神輿に乗らないと威勢のよさが削がれる」といふ意味のことを述べてゐたが、なるほど、それも一理あるであらう。豪華で重いとは云へ、神輿は昔江戸にあつた山車などに較べたらかなり小さいものである。それを澤山の人間が担ぐのである。担いでゐる人たちは威勢がよくても、ビジユアル的にはそれほど迫力のあるものではない。力自慢が六人くらゐで担ぐなら別であるが、六十人では、賑やかでエネルギーは感じられても、勇壮とは云ひ難く、威勢のよさが自慢の江戸つ子の祭りとしては、いまひとつ物足りないのである。したがつて、その辺を補ひ、祭りの雰囲氣をとことん盛り上げるためには、神輿に澤山の人が乗つて「ワツシヨイ、ワツシヨイ」と大きな声で音頭を取つたりする演出が必要となるのである。

だが、今まで神輿乗りを黙認してきて、今年になつて突然禁止令を出す、その姿勢に問題はあるものの、神社側の「神を軽視する行為が他の神社へ波及する悪循環を恐れる。本來の祭りの姿を取り戻したい」といふ意見ももつともである。神輿に乗ることはやはり止めるべきであらう。だが、おとなしい三社祭では面白くない。江戸つ子の祭りから“無鉄砲”や“無頼”と云つた形容が無くなるのも寂しいものである。何かよい方法は無いだらうか。

それはさておき、今年は三社祭の大行列のある日に浅草を訪れて、その様子を写真に収めた。そこで、そのうちの何枚かをここ(下記のURL)にアツプしておかうと思ふ。

http://qwanglla.cocolog-nifty.com/photos/sanjyamatsuri2007/index.html

注:写真は5月18日に撮影。

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2007年5月16日 (水)

照姫まつり

Simg_1158 小僧の住んでゐる練馬のアパートの近くに石神井公園といふかなりの広さを有する公園があるが、今週の日曜日、そこで『照姫まつり』といふイベントが催されてゐると聞いて出かけて行つた。照姫まつりといふのは、室町時代中期、太田道灌と戦つて敗れ、悲運の武将と云はれた石神井城主豊島泰経と、その二女で、傳説のヒロインと云はれてゐる照姫に光を当てて、石神井の歴史を偲ばうとするイベントである。

つまり、この照姫まつりは「まつり」と云つても本來の意味の祭禮のやうなものではなく、最近よく見かけるやうな記念行事的な“まつり”、云ひ換へれば、一種の町おこしのやうなイベントである。だが、「まつり」と聞けば「ヤマザキのパン祭り」であらうが何であらうが敏感に反応してしまふ小僧は、穏やかな初夏の陽氣が心地よいし、地元のイベントで、今年で二十回目を迎へるやうなものなら一度は見ておきたい、と思つた。そこで、カメラ片手に浮き浮きとした氣分で石神井公園に足を運んだのであつた。

といふわけで、その日は夕方まで石神井公園周辺で過ごした小僧であつたが、イベントそのものはなかなか楽しめるものであつた。メイン行事の時代絵巻行列のほかに、ダンスやバンド演奏などのパーフオーマンスがあつたり、地元の人が飲食物を安く賣つてゐる露店が公園内に澤山設けられてゐたりして、家族連れには特に好評のやうであつた。

なほ、食ひしん坊の小僧は、公園内の露店をいろいろと覗きながら、専ら、焼きそばやおでんやソフトクリームなど、いろいろなものを食べることに夢中になつてゐたのであるが、照姫を主役とする時代絵巻行列だけはその絢爛豪華な(?)様子をカメラに収めたので、ここにアツプしておかうと思ふ(下記のURL)。因みに、照姫役は一般公募で選ばれた練馬区在住の高校一年生が務めた。

http://qwanglla.cocolog-nifty.com/photos/teruhimematsuri2007/index.html

注:上の写真はパレード中の照姫。5月13日に撮影。

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2007年5月14日 (月)

府中祭(暗闇祭) 其の三

Simg_0951 府中祭の神輿はそれほど大きいものではないが、見物客の眼をひときは引くのが神輿に先立つて町を曳かれて行く御太鼓である。この御太鼓は全部で六つあるが、いちばん小さいもので皮面直径一メートル二十九センチ、いちばん大きいもなら直径二メートルと、いづれもずば抜けた大きさを誇つてゐる。

勿論、この御太鼓は町の中で打ち鳴らされるが、その音も当然ながら大きい。氏子たちが代はる代はる野球のバツトのやうな太い撥で思い切り叩くのであるが、その音は大砲を撃つた時に出るやうな低い大きな音で、離れて聴いてゐても五臓六腑にズーンと強く響くのである。

神輿の渡御を先導する太鼓がどうしてこのやうに大きいかといふと、喧嘩も太鼓の音も負けてはゐられない、とそれぞれ太鼓を担当する町が対抗心を燃やし、競ひ合ふやうにして太鼓を大きくした結果、今のやうな大きさになつたといふことらしい。つまり、この御太鼓の大きさは府中の人のこの祭りに対する意氣込みをそのまま表してゐるのである。

しかし、その御太鼓と神輿の渡御は、都會の祭り、それも連休中といふことで澤山の見物客が詰め掛けてゐたが、大きな喧嘩も混乱も無く、大体において整然としてゐて、喧嘩祭りと呼ばれた 頃の祭りの雰囲氣は無いやうに思へた。思ふに、祭りがこのやうなおとなしいものになつたのは、現代人の氣質が昔の人のそれと異なつてゐるといふこともあるが、町の中が夜でも明るいことや、規制する警官の数が多いことが大いに影響してゐるからであらう。

Simg_0944jpg2_1 これが、昔と同じやうな、町の明かりを全て消した本当の暗闇の中の渡御であつたとしたら、それはどのやうなものになつてゐたであらうか。暗闇の中で何でも許されるやうな祭りであつたとしたら・・・。できるなら、それをこの眼で一度見てみたい、いや、体験したいものである。

ケータイに映るケータイ荒神輿  神楽小僧

注:写真は全て5月5日撮影

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2007年5月11日 (金)

府中祭(暗闇祭) 其の二

Simg_0977 東京都府中市にある大國魂神社は古來より武蔵の國の総社であり、國内の代表社頭六所を総合勧請するので六所明神(小野大神、小河大神、氷川大神、秩父大神、余鑚大神、杉山大神)とも呼ばれてゐる。そこで、その祭禮は六所祭りと云はれた時もあるが、今は一般に府中暗闇祭・暗闇祭(やみまつり)と呼ばれてゐる。

古來よりこの地方では、神の來臨は夜間に行はれると信じられてをり、神輿の渡御は深夜に行はれてゐたが、その時沿道の家々では一斉に灯火を消すので、さう呼ばれるやうになつたといふことである。実際、土地の人に訊くと、「昔は、夜の十二時ごろから神輿が御旅所に向かつて渡御したが、その時、町の灯火は全て消されてゐた。翌朝早く、煙火の打ち上げを合図に町の全ての家が一斉に点灯した」といふ話であつた。

だが、今はそのやうなことは守られてゐない。神輿が渡御するのは夕方からで、しかも、街灯やネオンの明かりが皓々としてゐる中で行はれるのである。昔は御旅所から神輿が互ひに打ち合ひ、もみ合ひしながら還御したので、この祭りを喧嘩祭りと呼んださうであるが、今はそのやうなことも無い。昔の府中祭を知る人はこのやうな祭りの変貌を一体どのやうに思つてゐるのであらう。

Simg_0908_1  それはさておき、その神輿の渡御がメインの行事であるが、この祭りには山車も出る。神輿の渡御の前日に府中市内の山車が全て集まり、パレードを行ふことになつてゐるのである。山車が府中祭に登場するやうになつたのは大正になつてからといふことであつたが、これらの山車は踊りを披露することのできる囃子台の上に唐破風の屋根が附いたもので、どちらかと云へば、踊り屋台と云ふべきものなのかもしれない。しかし、この山車の巡行は前日に終はつてゐて、残念ながら小僧はそれを眼にすることができなかつた。

じやんけんの小さき拳柏餅  神楽小僧

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2007年5月10日 (木)

府中祭(暗闇祭) 其の一

Simg_0834 今年の黄金週間は岐阜の垂井から北陸の七尾や城端へ足を伸ばさうと思つてゐた小僧であるが、あらうことか、その計画は全ておぢやんになつてしまつた。黄金週間に入つたばかりの日に酷い腹痛をおこして寝込んでしまつたからである。

そもそも、その前夜、道でばつたり豆腐小僧に逢つたのがまづかつた。その時、豆腐小僧は小わきに澤山の豆腐の味噌田楽を抱へてゐたのであるが、それが小僧の眼に入つた。聞けば、それらは全て売れ残つたものだと云ふ。その日、豆腐小僧は小さな神社の祭りに露店を出してゐたが、朝から降つたり止んだりの天氣で、賣り物の味噌田楽を澤山余らせてしまつたのであつた。

食ひしん坊の小僧がそれを見逃すはずは無かつた。豆腐小僧から奪ひ取るやうにしてそれら全部をもらひ受けると、アパートに持ち帰つてから、その日のうちに全部平らげてしまつた。だが、もともとそれらは豆腐小僧が豆腐屋から半分腐つたものを仕入れて賣つてゐたものだからたまらない、翌日、小僧は酷い腹痛を覚えると、まもなく高熱に襲はれてダウン、二、三日寝込むやうな状態になつてしまつた。鬼の霍乱ならぬ妖怪の霍乱である。

といふわけで、黄金週間中は春祭りの中でも特に面白いものが各地で集中的に行はれるにもかかはらず、小僧はその間何処へも出かけず、苦痛に耐へながら、悶々と過ごさなければならなかつた。小僧に関する限り、とてもではないが、その間は黄金週間と云へるものではなかつたのである。

Simg_0850_1 だが、連休も後半になると、漸く体が回復して氣分も或る程度よくなつた。そこで、何処か近場で祭りをやつてゐないかとインターネツトで調べてみると、都下の府中で通称『くらやみまつり』とか『やみまつり』と呼ばれる大國魂(おおくにたま)神社の例大祭が丁度行はれてゐるではないか、小僧は早速出かけて行つた。

馬の耳震はす太鼓府中祭  神楽小僧

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2007年4月19日 (木)

犬山祭二〇〇七 其の三

Simg_0027 どんな祭りでも、人が押し合ひへしあひするやうになるまで見物客が増えれば、当然のことながら事故が起きる可能性は高くなる。街中で大きな山車を曳き廻すやうな祭りなら尚更であらう。

といふことで、その辺りのことを犬山の祭り関係者は考へたに違ひない、今年の犬山祭の本楽祭の夜車山はそのスケジユールが大幅に変更されてゐた。例年なら、十三輌の車山は北組(六輌)と南組(七輌)に分かれてゐても、結局のところ本町通りで合流し、『どんでん』(車山の片側を担ぎ上げて方向転換を行ふ大技)を競ひ合ふ場所となつてゐる下本町の交差点は澤山の見物客で大変混雑するのであるが、今年は、余坂を出発した北組は下本町に向かはずに針綱神社に集結し、そこでどんでんを披露したのである。

つまり、下本町の交差点近辺と針綱神社の二つの場所に見物客は分散されたのである。これは初めての試みであつたが、なかなかよいアイデアであつた。事故を防ぐことにもなるし、見物客は夜櫻の中を曳かれてゆく車山を観ることもできるからである。もちろん、試楽祭の日に車山と夜櫻の共演は観ることができるが、本楽祭にそれが観られないとしたら、それは少し寂しいことだと云へるだらう。

事実、今年は試楽祭の夜車山が雨で中止になつてしまつたので、小僧がそれを楽しめたのは本楽祭の夜になつてからであつた。ちろちろと揺れるろうそくの明かりがなんとも懐かしく暖かい提燈、その提燈が三百六十五個飾られた車山と、ライトアツプされた満開の夜櫻、その素晴らしい共演を観なければ犬山祭を見物したことにならないと云つてもよいくらゐであるが、今回、祭り関係者によつて新しい試みが為されたおかげで、小僧はなんとかそれを満喫できたのであつた。

夜櫻や「死ぬまで祭り馬鹿」と云ふ  神楽小僧

注:写真は今年の四月八日に撮影。

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2007年4月17日 (火)

犬山祭二〇〇七 其の二

Simg_9327_2 それにしても今年の犬山祭は大変な人出で、小僧もちよつとばかり驚いたのであるが、祭り関係者から聞いた話によると、天候がよいことと櫻の満開が重なつたこともあるが、何よりも名鉄が犬山に観光客を集めるキヤンペーンを張り、犬山祭のCMをテレビに流したのが今回の人出の多さに繋がつたのではないかといふことであつた。

因みに、名鉄の乗降客や観光バスの台数を基に割り出した見物客の総数は二日間で延べ四十七萬人といふことであつた。犬山の人口が約七萬人といふことを考へると、これは大変な数字と云つてよいであらう。

今年は特に多かつたが、犬山祭の見物客は年々増えてゐるやうである。これは観光の街、犬山にとてもよい影響を与へてゐるに違ひない。小僧としても、故郷の祭りの良さが多くの人に認知されてゐるわけであるから大いに喜ぶべきことであらう。

だが、実際はさうもいかない。小僧は手放しでそれを喜ぶわけにはいかないのである。何故なら、元來、小僧は人込みをあまり好まないからである。祭りは飯よりも好きであるが、人が押し合ひへしあひするやうな、見物客があまりにも多い祭りは好きではないのである。

それに、見物客が多くなれば、事故の起きる可能性も大きくなる。さうなれば、それを予防するために警察の規制も強化され、結果的に祭りの風情は薄められてしまふのである。これは、祭りを愛し、それを真摯に楽しまうとする者にとつて歓迎すべきことではないであらう。つまり、そのやうな人々にすれば、祭りの見物客の数はほどほどが望ましいといふことになるのである。といふことで、今年、針綱神社前の広場を埋め尽くした澤山の見物客を見た小僧は少しばかり複雑な思ひに捉はれたのであつた。

散る櫻土に落ちぬを悲しめり  神楽小僧

注:写真は今年の四月七日に撮影。

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2007年4月16日 (月)

犬山祭二〇〇七 其の一

Simg_9344_1  二日間のうちのいづれか一日は必ず雨で中止になるといふジンクスが生まれるほど、天氣の神様に嫌はれ続けてゐる犬山祭であるが、直前の天氣予報によれば今年は両日とも晴れといふことで、こりや、久し振りに故郷の祭りが心ゆくまで堪能できさうだぞ、と今までに無いくらゐの浮き浮きとした氣分でその犬山に足を運んだ小僧であつた。

だが、どつこい、当のジンクスの粘り腰は相当なもので、一日目の試楽祭は夕方から突然雨が降り出し、昼間の車山(やま)揃へとからくり奉納は行はれたものの、車山に三百六十五個の提燈を附けて夜の街を練り廻す夜車山(よやま)は中止になつてしまつた。予想もしてゐなかつた夜車山の中止に小僧が酷く落胆したのは云ふまでもない。
Simg_9954_2










だが、思はぬ雨も翌日の朝までには上がつてゐて、二日目の本楽祭は快晴であつた。そして、異常氣象から早めに咲いて、祭りの前に散つてしまふのが心配された櫻もなんとか持ちこたへてゐてくれて、天氣と櫻の二大条件が揃へば最高と云はれる犬山祭を、小僧はその日久し振りに満喫できたのであつた。

といふわけで、残念ながら試楽祭の夜車山は取り止めになつてしまつたが、この数年間満足のゆく犬山祭見物ができなかつたことを考へると、今年、小僧は犬山祭を充分堪能したと云へるのではないだらうか。尚、今年の犬山祭は四月七日、八日に行はれた。

犬山の城や祭りや花吹雪  神楽小僧

注:写真は今年の四月七日、八日に撮影。

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2007年3月14日 (水)

或る祭の風景 

Simg_8726   

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2006年12月 8日 (金)

秩父夜祭二〇〇六

Simg_8045 十二月に入つてからは二日、三日と二日間続けて秩父を訪れた。勿論秩父夜祭を楽しむためである。昨年は大祭(本祭)の日が土曜日で、秩父の町は人で溢れ返つてゐたが、今年も天氣がよいうへに大祭が日曜日といふことで、祭りは同じやうに大変な賑はひであつた。

といふわけで、今年も大祭の日には屋台や笠鉾を追つかけて自由に動き廻ることができなかつたのであるが、今までの経験から、どのやうなルートをどのやうな順序で辿れば祭りを最大限に楽しむことができるか、といふことがある程度判るやうになつてきたこともあつて、今年は今までよりも中身の濃い秩父祭見物ができたやうである。

それに、今回は曳き綱を持つて屋台を引つ張るといふことを初めて経験したのであるが、これも一つの収穫だつたと云つてよいだらう。ほかの祭りで山車の曳き綱を持つたことがあるが、秩父祭ではそのやうなことはなかなかできないことだからである。

それは宵宮の日の出來事であつた。夜の曳き廻しが始まつた時に、中町の屋台を引つ張る元氣のよい女性たちを眺めてゐた時である、女性たちの列に偶然かなりの隙間ができてしまふといふことがあつたのであるが、その時曳き綱を持つてゐた一人の若い女性が、何を思つたのか、側に居た小僧に、その隙間に入つて綱を引つ張れ、と促したのである。そこで、ギヤルたちと一緒に秩父の屋台を引つ張るなんて、これはちよつとばかり面白い体験だぞ、へへ、と小僧は喜んだのなんの、にやけた顔を周囲に振りまきながら、その女性の申し出に直ぐ様応じたのであつた。

夜祭の花火や空の大太鼓  神楽小僧

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2006年11月18日 (土)

栃木秋まつり

十一月十七日は栃木県の栃木市を訪れ、九輌の豪華な江戸型の山車が曳き廻される栃木秋まつりを見物した。この栃木秋まつりは、そもそも、明治七年の栃木県庁 構内で行はれた神武祭典に、市内の二つの町がそれぞれ東京日本橋と宇都宮から山車を購入して参加したのが始まりと云はれてゐて、そのやうなことから、本來 の神社の祭禮とは違ひ、五年毎に行はれてゐるが、今年は栃木市制七十周年記念といふこともあつて大々的に行はれ、人出も多くて盛況であつた。夜に なると流石に寒かつたが、蔵の街通りでは地元の人たちが珍しいことに露店の中で手打ち蕎麦を作つてゐて、腹をすかした小僧はそこでかけそばのおかはりを何 杯もしたのであつた。

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2006年11月16日 (木)

本庄の祭髪

Simg_5473 埼玉県の本庄は江戸時代宿場町として大いに栄えた所であるが、町の中心を通つてゐる中山道も今はそこに昔の面影は無く、只の自動 車のための道路が閑散とした商店街を貫いてゐるだけである。だが、祭りの時になると、この通りは俄然華やいだ雰囲氣に包まれることになる。様々な露店が立ち並んで、十輌ほどの豪 華な山車の花道となると同時に、山車の曳き綱を持つ祭髪の少女たちでいつぱいになるからである。彼女たちはそれぞれ手古舞衣装や着流し姿に身を包んで祭りを一層盛り上げるのである。写真の撮影日は十一月三日であ る。

祭髪溢れて消えて中山道  神楽小僧

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2006年11月13日 (月)

飯能まつり二〇〇六

Simg_6098 十一月五日は埼玉県の飯能へ足を運び飯能まつりを楽しんだ。飯能市は秩父の隣に位置してゐるが、祭りの行はれる中心街には、池袋から急行に乗つて四十五分くらゐで行くことができる。小僧の住んでゐる所からなら三十分くらゐである。そこで、東京の祭り好きの者にとつて、飯能まつりは川越まつりと同じくらゐ身近な祭りとなつてゐるのであるが、そのうへ天気がよいといふこともあつて、今年の飯能まつりは人出も多く大盛況であつた。昨年はちよつとした思ひ違ひから前夜祭の日に訪れたため、原町の手踊りと底抜け屋台の町内曳きしか見ることができなかつた小僧も、今年は十輌の山車全ての巡行や曳き合はせ、および踊りや囃子の競演と、存分にその祭りを堪能することができたのであつた。

と云つても、その日は小僧にとつてよいことばかりあつたわけではない。思はぬ出來事に冷や汗を掻いたこともあつた。どういふことかと云ふと、その日は原町の天狐の突然の手荒い歓迎が待つてゐたからである。原町の天狐といふのは原町の山車の上で手踊りを行ふ怪しい天狐のことである。実は、小僧は昨年初めて飯能を訪れた時からこの天狐を大いに苦手としてゐるのである。

何故なら、昨年、市内の八幡神社の境内に置かれた原町の山車の上で、小田原囃子の流れを汲むといふ軽快な原町のお囃子と、それに合はせた手踊りが披露されてゐたのであるが、その時見物客の中に混じつてゐた小僧は、山車の上に登場した天狐にぢろりと鋭い眼で睨みつけられてしまつたからである。おそらく、天狐は眼に入つた小僧が妖怪であると直ぐに見破つたのに違ひなかつた。お前のやうなろくでもない妖怪が自分に断りも無く飯能をうろつくではない! 直ぐに退散しないと痛い目に遭はせてやるぞ!その時天狐の眼はそのやうに云つてゐるやうに見えたのであつた。

そこで、飯能を訪れたその日はこの天狐を大いに警戒してゐたのであるが、昼過ぎに駅前通りの雑踏で数輌の山車の巡行を眺めてゐた時はついうつかりしてしまつた。まさか、小僧の後ろに原町の山車が迫つてゐて、その上に例の天狐が立つてゐるとは思はなかつたのである。

「おい! そこにゐる妖怪!」

といふ大きな声が突然背後から飛んできたから、吃驚しながらも、妖怪と云ふからにはオイラのことを呼んでゐるのに違ひない、だがどうしてオイラが妖怪だとバレたのだらう? さては・・・と思つて後ろを振り向くと、思つた通り、そこには原町の天狐の姿があつた。眼の前には原町の山車があり、その踊り舞台から、子供が見たら泣いてしまふやうな怖い顔を天狐は小僧の方に向けてゐたのである。

Simg_5842jpgtrm_1 そこで、澤山の見物客の前で正体をバラされ恥をかかされてはたまらん、とそこから一目散に逃げ出さうとしたのであるが、まうその時は遅かつた。天狐の方に背を向けた途端、天狐の手から放たれた無数の蜘蛛の糸によつて小僧はがんじがらめにされ、瞬時のうちに全く身動きできないやうにされてしまつたのである。

ひよつとこに肩を叩かれ秋祭り  神楽小僧

飯能まつり2006写真集をご覧あれ

注:写真は11月5日に撮影

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2006年11月 7日 (火)

續本庄まつり二〇〇六

Simg_5411 江戸の山車祭りが明治になつて廃れた理由として路面電車や電線ができたことを挙げる人が多いが、祭り好きの江戸の町人が簡単に祭りを止められるわけもなく、江戸の山車は上層部が下に迫り込む(引つ込む)形になつてゐたことを考へると、それがいちばんの理由といふことではなかつたやうである。

『修禅寺物語』や『半七捕物帖』で有名な岡本綺堂の話によると、本当のところは、祭りにかかる費用や山車の維持費などを、それまでお上からの命令と貧しい町人たちからの突き上げでいやいや出してゐた金持ちの商人たちが、維新でその圧迫から逃れられることになつて、それ以後は金を出さなくなつたからといふことらしい。金が無ければ祭りを行ふことも古くなつた山車を修理することも難しいからである。

それはともかく、いづれにしても、江戸の山車祭りは明治以降すつかり廃れてしまつた。だが、北関東の幾つかの地域では、その傳統を引き継いだ形で今も山車祭りが行はれてゐる。本庄まつりもその一つである。特に、本庄まつりは殆どの山車が典型的な江戸型の山車であるから、それは江戸の祭りの風情を最も傳へる貴重な祭りと云つてもよいだらう。

写真は、その本庄の山車が中山道を曳かれて行くところである。だが、その中山道も道路の上を這ふ電線が非常に多い。そこで、江戸型の山車である本庄の山車は、それを避けるために上層部を下に迫り込ませて進むことになる。つまり、見事な人形もその間は頭の部分くらゐしか眼にすることができないのである。尚、写真の撮影日は十一月三日である。

山車人形電線くぐり抜けてゆき  神楽小僧

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2006年11月 5日 (日)

本庄まつり二〇〇六

Simg_5688jpg2_1 十一月三日、小僧は埼玉県の本庄を訪れた。北関東の有名な山車祭りの一つである金鑚(かなさな)神社の例祭、本庄まつりを見物するためである。小僧にとつて、本庄まつりは昨年に引き続き今回が二度目であつたが、雨に悩まされた昨年と違つて、この日は氣持ちのよい秋晴れで、祭りは大いに盛り上がり、そのおかげで小僧もそれを充分堪能することができたのであつた。

江戸時代、中山道の宿場町として栄えた本庄には、現在明治から大正にかけて建造された十輌の豪華な山車があり、祭りの時にはそれらが屋台店の立ち並ぶ中山道や駅前通りを賑やかに曳き廻されるのだが、それらの殆どは最上部に大きな人形を掲げてゐる典型的な江戸型の山車である。そして、山車を曳く人や囃子方もその殆どが、半纏や着流しを身に附けて江戸の町人のやうな恰好をしてゐたり、手古舞に扮してゐたりするので、本庄まつりは江戸の祭りが忠実にそこに再現されてゐる、さう云つてもよいくらゐ、その時代の雰囲氣が濃厚に漂ふ祭りとなつてゐるのである。

Simg_5345 だが、さうは云つても、本庄まつりはやはり現代の祭りである。若い女性は着流し姿でも、耳には派手なピアスが輝いてゐるのである。

着流しにピアスの乙女山車を曳き  神楽小僧

注:写真の撮影日は十一月三日で、場所は中山道である。

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2006年10月12日 (木)

有松まつり

Simg_3591 昨日は名古屋に遠征して、かつて東海道の宿場町であつた有松と鳴海の山車祭りを見物したが、有松ではまたしても山車の曳き綱を持つことになつてしまつ た。前回と同じやうに、またしても山車が勾配のある道を進まうとするのを見物してゐた時であつた。山車の関係者に、「人手が足りないから山車が坂 を上がることができない、すみませんが、そこで見物してをられる方々、山車を引つ張つてもらえませんか」と頼まれてしまつたからである。大体において祭 りで見物客が山車を曳く手傳ひをするなどといふことは無いのであるが、有松ではそのやうなことも普通のやうである。写真の撮影日は十月八日である。

旅カメラしまひて山車の綱を曳き  神楽小僧

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2006年9月30日 (土)

山車提燈の明かり

Simg_3196 尾張横須賀まつりの本楽の日の夜には、全ての山車は提燈を飾りつけて町を練ることになつてゐるのだが、他の尾張地方の山車祭りと同じやうに提燈の明かりに は今も傳統を守つて和ろうそくが使用されてゐる。したがつて、山車が進むにつれて、ろうそくの火による提燈の明かりがゆらゆら揺れて、それはそれはなかな か風情のある光景がそこに現出されるのである。いつであつたか、テレビでろうそくの明かりには『F分の一ゆらぎ』と呼ばれる人の心を癒す特殊な効果がある といふことが紹介されてゐたが、なるほどと思へる話ではある。実際、ろうそくの火がちろちろしてゐる提燈が闇の中でゆつくり揺れてゐる様を見ると、忘れて ゐた懐かしいものをふと思ひ出した時のやうな氣分になり本当に心が和むのである。尚、写真の撮影日は九月二十四日である。

背負はれて夢の祭りに迷ひけり  神楽小僧

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2006年9月29日 (金)

祭りの紙吹雪

Simg_2853jpg2 尾張横須賀まつりの最大の見ものは何と云つても山車の楫を取つてゐる若衆が前部の楫棒を担ぎ上げて山車を威勢よく回転させる『どんてん』だらう。この『ど んてん』は前楫四名、後楫四名、合はせて八名の楫取が呼吸を合はせて行ふものだが、山車は重さが五トンちかくもあるため大変力の要る豪快な技で、それだけ にそれを観る者を大いに興奮させるのである。そして、そのどんてんが行はれる時にはクラツカーが鳴らされたり、多量の紙吹雪が山車の上から撒き散らされた りするのだが、このやうな演出もその熱氣溢れる雰囲氣を大いに盛り上げてゐると云へるだらう。尚、写真の撮影日は今年の九月二十四日であるが、句のはうは 昨年詠んだものである。蛇足ながら、句の『紙吹雪』はこの場合『神吹雪』のはうが正しいのかもしれない。

吾が穢れ祓へ祭りの紙吹雪  神楽小僧

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2006年9月26日 (火)

祭り囃子年少組コンクール

Simg_2580 後継者不足に悩んでゐる祭りは多いが尾張横須賀まつりもその一つと云へるだらう。尾張横須賀はかつて漁師町であつたのだが、港が完全に埋め立てられてから は若者の流出が進んで、祭りに参加する人たちの数が急速に減つてしまつたといふ。そこで、祭りの後継者を育成しようといふ試みがいろいろと為されてゐるの であるが、写真にあるこの「祭り囃子年少組コンクール大会」もそのうちの一つである。年少組といふのは小学生、中学生を指すのだが、今年は何故かその中に 二十代と思はれる祭りギヤルの姿も見られた。撮影日は九月二十三日である。

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2006年9月25日 (月)

尾張横須賀まつり二〇〇六

Simg_3360 九月二十三日、二十四日は愛知県東海市横須賀町に遠征して尾張横須賀まつりを堪能してきた。横須賀には江戸時代から傳はる、からくり人形が搭載された五輌 の名古屋型の山車があるが、祭りの時はそのうちの四輌が勇壮に曳き廻される。山車は四輌と規模は余り大きいとは云へないが、尾張横須賀まつりは山車祭りの よいところがギユツと凝縮された濃厚な祭りである。写真は祭りが終はり山車蔵の前で楫方を務めた若衆が「二日間よく頑張つた」と胴上げされてゐるところで あるが、この前に山車の上からの餅投げがあつた。

餅一つ降りて祭りは終はりけり 神楽小僧

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2006年9月 2日 (土)

浅草サンバカーニバル2006

Simg_2386 毎年八月最終週の土曜日に東京の浅草では『浅草サンバカーニバル』といふリオのカーニバルを模したイベントが催されることになつてゐる。浅草といふ東京の下町を代表するやうな町で行はれるこの一風変はつたイベントは、そもそも、新宿や渋谷などの戦後繁華になつた町に押されて元氣の無くなつた浅草をサンバのリズムで活性化させようと、浅草で育つた俳優の故伴淳三郎等の提唱によつて二十六年前に始められたやうであるが、最初の頃こそ違和感があつたものの、今ではすつかり地元の人たちの間に定着してしまつたやうで、年々規模が大きくなると同時に見物客も増えてますます賑やかになつてゐる。

そして、何を隠さう、小僧もそのイベントが大変氣に入つてゐて、毎年のやうに会場に足を運んでゐるのである。何故なら、サンバやボサノバなどの南米のリズミカルで陽氣な音楽が昔からお氣に入りといふこともあるが、何もかも忘れて、女性たちが肌を大きく露出することを恥じることも無く踊り狂ふやうな、非日常性に溢れた賑やかな祭りが理屈抜きに好きだからである。そして、ブラジルへ行かなくても、浅草といふ近場でその本場のカーニバルの雰囲氣が多少なりとも味はへるのである。

といふわけで、小僧は今年も浅草に出かけたのだが、地下鉄の駅から外に出た途端面喰つてしまつた。パレードの会場となつてゐる雷門の前の浅草通りはいつもよりずつと多い人出で大変な混雑ぶりであつたからである。サンバの音楽は耳をつんざくほどに聞こえてくるのであるが、肝心のパレードのはうは沿道に立つて見物してゐる大勢の人たちが邪魔になつて時々通る山車の上部しか見えないといふ有様であつた。そこで、小僧は少しでもよく見える所は無いかと人込みの中をうろちよろして探したのであるが、なにぶんにも背の低い小僧である、何処にもそのやうな所は無かつた。

Simg_2359 となると、小僧は最後の手段に訴へるしかない。例によつて何処かにスルスルスルと旨い具合に登れるやうな電柱や高い所は無いかと辺りをキヨロキヨロと見廻した。するとその時であつた、小僧の肩を後ろからポンポンと叩く者が居るではないか。突然のことに少し驚いた小僧が怪訝さうに後ろを振り向くと、そこに立つてゐたのはほかならぬ豆腐小僧であつた。

だが、その時の豆腐小僧はどういふわけか大変珍妙な恰好をしてゐた。着てゐるものこそいつものやうに所々破れて穴の開いたジーパンに汚いTシヤツであつたが、百円シヨツプで賣つてゐるやうな安物のポリエチレン製のバケツを澤山重ね合はせたものをいかにも重さうに背負つてゐたからである。

「なんだ、豆腐小僧ではないか。お前もこのサンバカーニバルを見にきたのか? だが、安つぽいバケツをそんなに澤山背負つたりして、一体どういふわけなんだ? まさか、こんな所でそのバケツを賣つて歩いてゐるわけぢやないだらうな?」
「ケケ、その“まさか”でやんす。一つ三百円で賣つてるでやんす」
「馬鹿な! こんな所でバケツが賣れるわけがないだろ。一体何を考へてゐるのだお前は、氣でも狂つたか!」
「いえいえ、決して氣が狂つてるわけではないでやんす。実際、まうすでに五つほど賣れたでやんす。論より証拠、アニさん、あれをご覧になつてくださらんか」

小僧は豆腐小僧の指差す方を見た。すると、小僧たちの前方には依然として見物客の分厚い人垣ができてゐたのだが、そのいちばん後ろに一人の男が逆さまにしたポリバケツの上に乗つてパレードの行はれてゐる通りにカメラを向けてゐる姿が見えた。

Simg_2426 「アニさん、あの人もアツシのバケツを買つてくれたでやんす」
「ふうーむ、なるほど、さういふことだつたか。バケツが脚立代はりになるといふわけだな。しかし、浅草三社祭の時の傘と云ひ、今回のバケツと云ひ、何処までも抜け目の無い奴だな、お前は」
「ケケ、アニさん、この前も云ひやしたが、それを云ふなら、どちらかと云へば賢いと云つてほしいでやんす。だが、今回はこの豆腐小僧もちいとばかりしくじりやした。つり銭を忘れたために最初にバケツを二、三個賣り損ねたといふわけで」
「フフ、それはお前らしからぬ失敗だつたな。上手の手から水が漏れるといふやつだな」
「水が漏れる? アニさん、どうしてそれが判つたでやんすか? このバケツは不良品のバツタ物で、水を入れたら直ぐに漏れるでやんすが、どうしてそれが?」

秋蝶やサンバ踊るは誰のため  神楽小僧

浅草サンバカーニバル2006写真集

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2006年8月27日 (日)

深川八幡まつり

Simg_1828_2   八月十三日はそれこそ炎暑、酷暑などといふ言葉がぴつたり当てはまるやうな暑さであつたのだが、そのやうな暑さの中で行はれる祭りも又それなりの味はひがあるだらうといふことで、江東區の深川まで足を運び、俗に深川八幡まつりと呼ばれる富岡八幡宮の祭りを楽しんできた。

今でこそ余り知られてゐないが富岡八幡宮の祭禮はなかなか由緒のある祭りなのである。神社が創建されたのは寛永四年(1627)とそんなに古いとは云へないのだが、江戸時代にはその祭禮は日枝神社の山王祭、神田明神の神田祭とともに江戸三大祭の一つに数えられてゐたのである。天保年間に出版された東都歳時記(ちくま学芸文庫版)にはその祭りのことが次のやうに書かれてある。

「当社祭礼は寛永二十年(一六四三)より始まる。古しへは年ごとに流鏑馬(やぶさめ)ありしとぞ。文化四年(一八〇七)までは、隔年に本所一の橋の御旅所へ神幸ありて、同日帰與あり。産子の町々よりも出しねり物を多く出せしが、同六年より、ゆゑありてこのことを止む。今は、境内額堂の向かひへ仮屋を構へて神輿三基を遷す。町々、幟、神酒所、挑灯、飾り物あり。賑はひはむかしにおとらずといへり」

文化六年に、倹約が叫ばれてゐる折おそらく御上から派手なことは慎むやうにといふお達しがあつたのだらう、山車や練り物は出されなくなつたのだが、それ以前は勿論それ以後も祭りは大いに賑はつてゐたやうである。因みに、記事にある『神輿三基』はその昔豪商として名を馳せた紀伊国屋文左衛門が奉納したとされる宮神輿で総金張りのものであつたと云はれてゐる。

その文左衛門関の神輿は全て関東大震災で惜しくも焼失してしまつたのだが、今はそれに代はつて日本一大きいと云はれる大神輿が一基境内の蔵に納まつてゐる。この神輿は長い年月を経た平成三年になつて漸く作られた宮神輿なのだが、ダイヤモンドやルビーなどの宝石を澤山散りばめた大層豪華なもので、その重さは四トン半ほどもあるといふ。

Simg_1851 しかし、今回境内にある蔵の中に大切に置かれてゐるその神輿を拝むことはできたのだが、残念ながらそれが大勢の氏子たちによつて担がれてゐるところを見ることはできなかつた。何故なら、今年は本祭ではなく陰祭の年で、その大神輿の代はりに最近になつて新たに二之宮として作られた少し小さな神輿が渡御に使用されたからであつた。つまり、重い神輿を毎年担ぐのは大変といふことで陰祭にはその大神輿は蔵から出されないことになつてゐるのである。

といふわけで、今年の深川八幡まつりは見物してゐるこちらがさほど熱くなるやうなものではなかつた。だが、暑い中練馬から深川まで遠征した甲斐はあつたと云つてよいだらう。何故なら、その日はどういふわけか八幡宮の境内でアマチユアのビツグバンドによつてヂヤズが演奏されてゐたのだが、これが結構楽しめたからであつた。

ヂヤズを聴く心に夢はよみがへり  神楽小僧

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2006年8月13日 (日)

四日市鳥出神社の鯨船行事

Simg_0334 去年の八月の上旬のことであつた。その頃小僧は名古屋方面に出かけてゐたのだが、丁度その時催されてゐた四日市の『大四日市まつり』といふイベントに祭りの山車が出るといふことを聞いてその四日市まで足を運んだことがあつた。すると、その四日市の中心地の大通りで『鳥出神社の鯨船行事』といふ祭禮行事が特別に披露されてゐた。この『鳥出神社の鯨船行事』といふのは、全国的に見ても珍しい祭禮行事といふことで国の重要無形民俗文化財に指定されてゐるもので、本來は八月の十四日、十五日の旧盆に四日市の富田地區の鳥出神社で行はれるのだが、その時はその大きなイベントで特別に公開されてゐたのである。そして、小僧はその祭禮行事をその時初めて眼にすることになつたのだが、それは大変面白く興味深いものであつた。そこで、その行事が行はれる十四日、十五日が間近に迫つた今、それをここに簡単に紹介しておかうと思ふ。

Simg_0342 この『鳥出神社の鯨船行事』は豪華な装飾を施した『鯨船』と呼ばれる船形の山車が曳き出される祭禮行事で一つの山車祭りと云へるのだが、それはちよつと変はつた山車祭りである。鯨船山車は全部で四輌(神社丸、神徳丸、感応丸、権現丸)あるのだが、山車を持つそれぞれの氏子たちはただ単にその山車を曳き廻すだけではない、その山車と張りぼての鯨を用ひて、鯨船が鯨との死闘を繰り返した後にやつとその鯨を仕留めるといふ演技を行ふのである。つまり、それは山車を使用した一つの芝居の披露と云へるものなのである。

その芝居の大体のストーリイはこんな具合である。鯨船が怒り狂つたやうに暴れ廻る鯨をまづ追ひかける。張りぼての鯨を操るのは子供や若者たちで、鯨船山車を引つ張るのは大人たちである。だが、鯨は簡単には捕まらない。鯨船に反撃を試みたりする。両者のぶつかり合ひがそこで暫く演じられるのである。しかし、そのうち鯨はだんだんと弱つてくる。結局、鯨船の上の少年が投げた銛によつてその鯨は息の根を止められてしまひ、そこでめでたしめでたしといふことになるのである。

この行事の行はれる四日市の富田はその昔漁業が盛んであつたさうである。だが、実際に鯨を捕つてゐたかどうかは定かではないといふ。すると、どうしてこのやうなことが行はれるやうになつたのだらうかといふことになるのだが、それも残念ながらよく判つてゐないやうである。ただ、ネツトで調べてみると、鯨船行事の調査報告書にはその由來に関して次のやうな文が書かれてあるといふことが判つた。『この行事は鯨を大漁や富貴(ふうき)の象徴と見なし、これを仕留める演技を行うことによって大漁や富貴を祈願する』。

Simg_0354 至極もつともな由來の推察である。だが、それは誰もが思ひつきさうな平凡なものであると云へなくもない。小僧としては少々拍子抜けであつた。事実、その『鳥出神社の鯨船行事』は一筋縄では行かない謎の多い行事と云はれてゐるのである。したがつて、ありきたりの解釈に不満な小僧は、他に何か訳があつたのではないだらうか、鯨は何か他のものを象徴してゐるのではないだらうか、などとあれこれ詮索してしまふのである。

張りぼての鯨もぐつたり夏祭り  神楽小僧

注:写真は全て2005年8月7日撮影。

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2006年8月 3日 (木)

佐原祭りの『のの字廻し』

Simg_1243 佐原を訪れた観光客が必ず訪れるのが伊能忠敬の旧宅である。わが国最初の実測日本地図を作つた伊能忠敬は佐原の伊能氏の養子であつたことから、彼の住んだ家が小野川沿ひに残されてゐるのである。そして、その旧宅の近くには彼の名に因んだ忠敬橋といふのが小野川の上に架けられてゐて、その忠敬橋から八坂神社や香取神宮の方にかけて古い町家の散見される香取街道が延びてゐる。

この香取街道が佐原の夏祭りのメインストリートになるのだが、祭りの時にはこの香取街道と八坂神社の脇を通る寺宿通りの交差点で、山車を一つの車輪を軸として筆で『の』の字を書くやうに回転させる『のの字廻し』が披露されることになつてゐる。楫棒を持つ若者たちが普段よりテンポの速い佐原囃子に合はせて重い山車を何回もぐるぐる回転させるのである。この豪快なのの字廻しは全ての山車が次から次へと行ふもので、佐原の祭りのハイライトの一つとなつてゐる。

だが、こののの字廻しはいつから行はれるやうになつたのか判らないのだが、関東では一般に山車を何回も回転させてその技を競ふやうなことはしないから珍しいパーフオーマンスだと云へるだらう。名古屋を中心とする尾張地方では山車を担いで回転させるのはよくあることで、それを『どんてん』や『車切』などと呼んでゐるのだが、江戸型の山車を曳き廻す関東の山車祭りでは普通そのやうなことをしないのである。

しないといふより出來ないと云つたはうが正しいのかもしれない。そもそも江戸型の山車は構造上の問題があつてそのやうなことに適してゐないのである。山車を勇壮に回転させて力自慢を誇るといふやうなことが出來ないのである。尾張の山車のやうに片方の車輪を浮かせて山車を担ぎ上げるなどといふことは尚更である。ただ、佐原の山車は江戸型の山車と云つても、それはオーソドツクスな江戸型の山車とはかなり異なつてゐて、二本の楫棒で横に回転させることが出來る。車輪も太く作られてゐる。そこでのの字廻しが可能となるのである。

こののの字廻しとは全く関係の無い話であるが、小野川沿ひに江戸時代から佃煮や漬物を作つて賣つてゐる店があつて、祭りの日にこの店先の焼き蛤が賣られてゐる横に地元でとれた胡瓜が並んでゐた。この胡瓜に味噌を附けて食べたのだが、これが何とも云へず美味しかつた。

川風に吹かれて胡瓜かじりをり  神楽小僧

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2006年7月28日 (金)

佐原の大祭夏祭り

Simg_1047 岩波文庫から『利根川図志』といふものが復刻されて出てゐる。これは幕末の下総の篤学者赤松宗旦が著した利根川流域の地誌なのだが、それが手元にあつたのでざつと眼を通してみた。すると、やはりそこには佐原に関する記述があつて、それには『佐原は下利根附第一繁昌の地なり。村の中程に川ありて・・・中略・・・米穀諸荷物の揚げ下げ、旅人の船、川口より此所まで、先をあらそひ両岸の狭きをうらみ、誠に水陸往來の群集、昼夜止む時なし。』と書かれてあつた。

このことから佐原は江戸時代大いに栄えた町といふことが判るのだが、祭りの当日に佐原でもらつた案内パンフレツトに因ると、当時その地方の産業の中心となつたのは酒や醤油などの醸造業で、『村の中程の川』である利根川の支流の小野川の川沿ひにはその醸造を業とする商家が軒を連ねてゐたといふ。そして、その小野川沿ひには今も当時の面影を残す町並みを見ることができるのだが、そのやうな情緒のある所を歴史のある山車が曳き廻される佐原の祭りはなかなか雰囲氣のある祭りと云へるだらう。

『利根川図志』にはその佐原の祭りのことも書いてあつた。『諏訪明神社・・・牛頭天王社・・・この両祭禮至つて賑はしく、何れも二重三重の屋台十四五輌づつ花をかざり、金銀をちりばめ錦繍の幕を懸け、囃子ものの拍子いとにぎやかに、町々をひきまはる。見物の群集人の山をなし、まことに目ざましき祭なり。』

その当時の佐原の祭りの『屋台』がどのやうなものであつたか、これだけでは詳しくは判らないのだが、とにかく、それは相当豪華なもので、祭りも盛況を極めたやうである。その当時の佐原の商人たちの経済力がどんなに大きなものであつたかをこの記述は物語つてゐると云へるだらう。

だが、一つ氣になることがあつた。佐原の山車を語る時に欠かせない大きな飾り人形のことがこの文には全く記されてゐないことである。これは一体どういふことだらう。なんだか妙である。すると、当時の『屋台』には今のやうな人形が飾られてゐなかつたといふことだらうか。それなら、著者がそれに触れてゐないのも判らうといふものである。しかし、もし、当時それが飾られてゐなかつたとすると、いつから飾られるやうになつたのだらう。それを熱心に調べようといふ氣にはならないが、ちよつと興味の惹かれる事柄ではある。

夕涼や囃子流るる街の川  神楽小僧

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2006年7月22日 (土)

筒井町出來町天王祭 其の六

Simg_0759 「え! といふと、あなたはストリ・・・へへへ、なんでもありませんので。さうでしたか、ダンサーでしたか。ふうーん、こりや、驚いた。あなたのやうな人がそのやうな職業とは。そんなふうには全然見えないが・・・」
小僧が驚いたのも無理は無い。実際、その三条さゆりといふ女性は、その時髪が極端に短かつたうへに化粧を殆んど施してゐない顔は素つぴんと云つてもよいくらゐで、小僧には普通のOLか女子大生のやうにしか思へなかつたのである。すると、朱藍坊が云つた。
「馬鹿だな、小僧、ダンサーと云つても普段から派手な恰好をするわけがないではないか。舞台に上がる時にだけかつらを被つたり、厚化粧したりするのだわ。それはさうと、オレは小便がしたくなつた、ちよつとトイレに行つてくる。その間オレのガールフレンドをよろしくな」

といふわけで、朱藍坊が何処かに姿を消すと、さゆり嬢はそれを見届けてから小僧に云つた。
「シユーさんはあんなことを云つてはるけど、うち、彼のガールフレンドでもなんでもあらへんのよ。シユーさんはしよつちゆう劇場に足を運んでくれはるし、うちも山車やからくりに興味があつたから、今日だけはシユーさんの願ひを聞いて、かうやつて附いてきてあげた、さういふわけなんよ」

話を聞けば、さゆり嬢は関西の出身で名古屋の山車を見るのは今回が初めてといふことであつた。そこで、小僧は彼女に山車やからくりの説明をすることにしたのだが、広場の中央では筒井町の湯取車のからくりが丁度始まつたところであつた。湯取車のからくりは湯立神事を人形が演じるものであるが、湯立神事とは巫女が神前で沸かした湯を笹の葉で身に振りかけて神の仰せを窺ふといふ古來から広く行はれてきた神事である。

ところが、小僧がそのからくりのことをさゆり嬢に説明してゐると、そのからくりが演じられてゐる湯取車の上山でちよつとした異変が起きた。巫女人形が両手に持つた笹の葉で釜の中の湯をかき回さうとすると、その釜の横から突然ぬつと現れた物があつたのである。それはサツカーボール大の物で、通常ではそのやうなものが現れることはなかつたから小僧は驚いた。一体何だらうと眼を凝らしてよく見ると、それはいはゆるスキンヘ Simg_0421 ツドと呼ばれる髪をきれいに剃りあげた人の頭であるのが判つたのだが、次の瞬間、横を向いてゐたその頭が前を向いて顔全体が露(あらは)になつた時小僧はあつと声を上げた。なんといふことか、それは朱藍坊の頭であつたのである。おそらく小僧たちを驚かしてやらうといふ魂胆からなのだらう、悪戯好きの朱藍坊はいつの間にか湯取車の中に潜り込んでゐて、からくりが始まるや否やその舞台に頭を覗かせたといふわけであつた。

その朱藍坊は上山から頭だけを出して暫くキヨロキヨロと辺りを見廻した後、まるで晒し首が笑ふかのやうに小僧たちの方に向かつてニコつと微笑んだのだが、小僧の隣でからくりを見てゐたさゆり嬢は近眼なのかそれに氣がつかない様子で呟いた。
「あら、この湯立神事のからくりつて、芸が細かいのね?」
「芸が細かい? そりや、またどうして?」
「だつて、湯を入れるヤカンまで用意してあるぢやない」

あれこれと今日は悩まず山車囃子  神楽小僧

(了)

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筒井町出來町天王祭 其の五

Simg_0539 それはさておき、広場では山車が整列した後、世が世ならば尾張徳川家当主といふ徳川美術館長と山車関係者の挨拶が行はれたのだが、最初に入場した筒井町の湯取車(ゆとりぐるま)の元老や宰領と云つた役員と徳川美術館長との挨拶が交はされてゐる時であつた、美術館の階段を上がりきつた入り口の前に立つてその様子を眺めてゐた小僧の耳に、突然「おーい!神楽小僧!」といふ小僧を呼ぶ大きな声が届いた。

一体誰だ、こんな所でオイラを呼ぶとは、と思ひながら小僧がその声のする方に眼をやると、湯取車を囲んでゐる群集の中から小僧に向かつて手を振つてゐる浴衣姿の男が居る。よく見ると、その男の顔は猿の顔のやうに赤いうへに、頭はユル・ブリンナーのやうな、髪の毛を全て剃り落としたスキンヘツドであつた。小僧の知り合ひにそのやうな男は一人しか居ない。それは西枇杷島で小僧に喰ひ物を散々ねだつたあの朱藍坊であつた。

すると、直ぐにその朱藍坊は群集を掻き分けながら小僧の方に近づいてきたのだが、どういふわけか、その顔はやたらとニコニコしてゐて、酷く機嫌がよいやうに思へた。だが、その理由は直ぐに判明した。朱藍坊の背後に一人の若い女性が附き従つてゐるのが見えたからであつた。それはボーイツシユな短い髪を栗色に染めた、細面のやや背の高い女性で、ジイーンズにピンクのタンクトツプといふ恰好であつたが、遠眼にはなかなかの美人のやうに思へた。

Simg_0292 やがてその若い女性を連れて小僧のところにやつてきた朱藍坊であつたが、着てゐる浴衣は例のビヂネスホテルの名前が入つたもので、やはり前日と同じやうに酒の匂ひをぷんぷんさせてゐた。
「小僧よ、昨日は世話になつたな、ヒヒ、だが、途中で消えるとは水臭いぞ」
「お前が余りにも氣持ちよささうに寝てゐるからそのままにしておいたんだ。そんなことより、一体どういふことだ、朱藍坊、お前が若い美人の女性と一緒とは?そのうち、雨どころか、雪でも降るのではないか?」
「ヒヒ、相変はらず口の悪い奴だな。オレはな、かう見えても女性にはもてるんだわ。ぎやうさんガールフレンドがをる。で、この女性はそのうちの一人といふわけだわ。な、さゆりちやん?」

と朱藍坊がにやけた顔を側に居る女性の方に向けると、そのさゆりちやんと呼ばれた女性は小僧の方になんとなく人懐つこい笑顔を向けて云つた。
「こんにちは。うち、名前を三条さゆりつて云ふの、よろしくね。ところで、あなた、出來町にあるライブシアター×映つてご存知? 実はうち、そこに出演してゐるダンサーなの、フフ。今度是非うちの踊りを見にいらしてね!」
ライブシアター×映といふのは徳川園から余り遠くない所にあるストリツプ劇場で、小僧はそこに入つたことはなかつたが名前だけは知つてゐた。

殿様の庭に夢見む花菖蒲  神楽小僧

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2006年7月19日 (水)

筒井町出來町天王祭 其の四

Simg_0718_2 どうやら取り留めの無い文章を長々と書いてしまつたやうである。これではこの筒井町出來町天王祭と題した文もなかなか終はりさうにないので先を急ぐことにしたい。といふわけで、ここから暫く小僧の取つた行動をビデオテープの早送り風に描写してみると、

出來町で三輌の山車の出逢ひを見物した小僧はそれから筒井町に出向き、提灯で飾られた山車を見てから、的屋を冷やかしたり、浴衣姿の女の子をからかつたり、時には酔つてゐる祭り関係者に顔見知りの振りをして近づいて酒や弁当をねだつたりしながら、賑はつてゐる夜の筒井町商店街や建中寺公園をぶらぶらして、その下町情緒豊かな宵祭りを堪能すると、再び出來町に戻つたのだが、提灯を附けた山車の曳行を楽しんでゐる途中、草臥れて路傍に座り込むとそのまま眠つてしまつた、と思ひきや、警官に、そんな所で寝ちやいかん、と注意され、仕方が無いから立ち上がつたものの、何処でどういふことになつたのか、それから暫くして意識が無くなり、氣がついた時には出來町にある徳源寺といふ臨済宗の寺の境内の釈迦堂の前で眩しい朝の光を浴びながらごろと横になつてゐたのであつた。

といふことになるのだが、ここからは話を早送りから順送りに戻すことにする。

それから小僧は、いやはや、とんだ所で一夜を過ごしてしまつたやうだな、しかし、天氣がよいから、この分だと今日も祭りが存分に楽しめるぞ、と独り呟きながら立ち上がると、少し奮発して近くのデニーズに足を運んで朝食を摂り、その後そこで暫くうとうとしてから、その日山車が揃ふことになつてゐる徳川園に向かつたのであつた。

すると、途中で徳川園に向かふ一輌の出來町の山車に出逢つたので、小僧はこれは丁度よいと山車囃子を楽しみながらそれに附いて行つたのだが、その山車より一足先に徳川園に入り、その中の徳川美術館前の広場を覗くと、そこには既に大勢の見物客が詰め掛けてゐるのが見渡せた。そこで小僧はその『徳川園山車揃へ』と命名されたイベントの人氣の高さを思ひ知らされたのだが、それは昨年から始められたばかりの新鮮な催し物で、そのうへ筒井町と出來町の山車が揃ふ唯一の行事といふことを考へれば、それも当然のことであつたと云へるだらう。

Simg_0424_1 ただ、今年は集まつた山車が去年より一輌少ない四輌といふことで今一つ盛り上がりに欠けたのは残念なことであつた。昨年、筒井町と出來町の五輌の山車が初めて徳川園に勢揃ひした時、その山車が整列した所が、その様式と白い壁の所為でまるで城のやうな雰囲氣を漂はせてゐる徳川美術館の前であつたといふことから、東照宮祭や三之丸天王祭と云つた、山車を城の中に曳き込んだ江戸時代の名古屋の山車祭りがまるでそこに再現されてゐるかのやうな印象を受けて小僧は大変感動したのだが、今年は二回目、それも一輌少ないといふことでその感動がやや薄れたのは否めなかつた。

だが、だからと云つて、このイベントの意義が失はれたと云つてゐるわけではない。今後このイベントが回を重ねたとしても、五輌の山車全てが徳川園に集まらないとしても、それが失はれることはないだらう。この『徳川園山車揃へ』は単なる眼新しいイベントといふものではなく、それはそれでなかなか意味のあるイベントなのである。実際、今回昨年と同じ所に山車が整列した時はやはり格別なものがそこに感じられたのである。

そもそも徳川園はその昔尾張徳川家の下屋敷があつた所に築かれたもので、このイベントでは、そのやうな特別な場所に尾張徳川家の殿様が造らせたと云つてもよいやうな山車が幾つか曳き込まれ、徳川家に代々傳はる宝物が納められてゐる美術館の前にそれらが揃へられるのである。つまり、尾張徳川とそれと関係の深い尾張名古屋の山車、この二つの『江戸時代のもの』どうしがこの現代において、織姫と彦星のやうに一年に一度顔を合はせるのである。それを見届けることは一つの特別な体験と云つてよいだらう。

葵三葉残りし庭に山車集ひ  神楽小僧

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2006年7月10日 (月)

筒井町出來町天王祭 其の三

Simg_0187 西枇杷島を後にした小僧はまづ出來町に向かつた。JR線の上に架けられた出來町橋の近くで三輌の山車が出会ふ時刻が近づいてゐたからであつた。祭りの前日(まへび)は出來町の山車はそれぞれ違ふコースを曳き廻されるのだが、夕刻になると三輌は同じ場所に曳き入れられ、それぞれの山車の関係者の挨拶がそこで行はれるのである。小僧が件(くだん)の場所に着くと、そこにはまう三輌の山車が勢揃ひしてゐて、山車を曳く氏子たちや見物人を含めた大勢の人たちがそれらを取り囲んでゐた。

だが、大勢の人たちと云つても、それはそれほどの数ではない。全部で五百人を超えてはゐなかつたのではないかと思はれる。したがつて、この場合どちらかと云へば少ないといふ表現が当てはまるのかもしれない。しかし、そのやうに祭りの参加者や見物人が少ないのも仕方の無いことと云へるだらう。それ眼当ての観光客が訪れるやうな有名な山車祭りとは訳が違ふのである。名古屋の人間でさへ、その殆んどが知らないやうな祭りだからその見物人の数も限られてしまふのである。

と云ふと、なんだかこの祭りに対して侮蔑的な言葉を吐いてゐるやうに思はれるかもしれないが、そのやうなことは決してない。事実はその反対である。この祭りのよさや価値を認めてゐるからそのやうな皮肉つぽい云ひ方になつてしまふのである。

この筒井町と出來町の天王祭はどちらかと云へばマイナーな祭りである。だが、このまま続いてゆけば、いつの日にかそれは脚光を浴びることになるに違ひない。何故なら、それは江戸時代の名古屋の三大祭りの衣鉢を継ぐ数少ない祭りの一つで、それだけに貴重であり、、文化財としても貴重な山車や人形からくり、及び能楽に影響された芸術性の高いお囃子はその存在感を今後ますます高めていくと考へられるからである。事実、祇園祭や高山祭に較べて規模では負けるが内容では負けてゐないと云つてよく、そのやうな祭りだから、万人がそれを認めないわけがないのである。

だが、今はその時期ではないらしい。この祭りの価値を認める人は云ふまでもなく、その存在さへも知らない人のはうが今はまだ多いのである。全国的には全く無名の祭りであると云つてもよいだらう。実際、出來町の三輌の山車の出会ひの場に集まつた見物人の殆んどは町内の人たちで、何人かの山車祭りマニアや素人カメラマンが山車の周りをうろちよろしてゐるだけであつた(小僧もその一人だが)。

Simg_0699 しかし、そのやうな見物人の余り多くない小ぢんまりとした祭りが小僧はどちらかと云へば好きなのである。これはそのはうが酒や食べ物にありつける機会が多いといふ理由から云つてゐるわけではない(少しはあるが)。人込みが嫌いだといふ理由から云つてゐるわけでもない。以前にも少し述べたが、見物人が多い祭りはそれだけ規制が強化されることになつて、その祭りをゆつくりじつくり楽しむことができないからなのである。つまり、警官の顔が厳しくなればなるほど、規制用のロープの数が増えれば増えるほど、それだけ祭りの風情は失はれてしまふのである。それだけではない、祭りに参加してゐる人と見物人との間の距離が物理的にも精神的にもその分だけ遠くなつてしまふのである。

といふわけで、それが山車祭りなら、山車と見物人との距離が余り離されることのない、お囃子も間近で聴けるやうな祭りが小僧としては好ましいのだが、筒井町と出來町の天王祭は幸ひにもそのやうな祭りであると云へるだらう。そしてそれは、時には家族的な雰囲氣も感じられる、見物人にとつては大変居心地のよい祭りなのである。したがつて、将來この両町の天王祭が広く知られることになるだらうと云つたが、小僧はそれを願つてゐる反面、大勢の見物客がどつと押し寄せるほど有名になつてほしくはないと思つてゐるのである。

留守番を犬に任せて夕涼み  神楽小僧

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2006年7月 3日 (月)

筒井町出來町天王祭 其の二

Simg_0509 名古屋駅から地下鉄桜通り線の今池方面行きに乗り、五つ目の車道駅で降りて長い階段を傳つて地上に出ると、そこには名古屋特有の幅の大変広い大通りが東西に走つてゐる。そして、その大通りの直ぐ北側に筒井町があり、その筒井町から更に北に行つた所に出來町がある。

筒井町は江戸時代、武家屋敷と商人の町として栄えたと云はれてゐる。しかし、今は町の中に武家屋敷や古い商家は全くと云つてよいほど残つてゐない。昔の面影を残してゐた建物は現在その殆んどが住宅や商業ビルなどに建て替へられてゐるか、あるいは取り壊されて大学や高校や區役所の敷地となつてゐるのである。

だが、お寺だけは例外と云へるだらう。筒井町には幾つかの寺があるのだが、その寺の中でも東區の區役所の隣にある建中寺といふ古刹は町のシムボル的存在となつてゐるのである。この寺は江戸時代初期、尾張徳川家二代目の殿様の徳川光友が父である藩祖義直を弔ふために創建したもので、その歴史のある建物と広大な敷地を誇つてゐるのだが、その境内の南半分が公園になつてゐて、この公園の前に筒井町商店街が広がつてゐる。そして、天王祭の日には、この公園に澤山の屋台が並び、商店街の通りは賑やかな山車の花道となるのである。

一方、出來町は江戸時代、職人の町として栄えたと云はれてゐるが、やはり武家屋敷も多かつたやうである。ここも筒井町と同じやうな運命を辿つてゐるのだが、筒井町と少し違ふのは、ナゴヤドームやJRの大曽根駅が近い所為もあつて、将來再開発が進められることが考へられ、いつの間にか町全体がすつかり変はつてしまつてゐる、そのやうな可能性が残されてゐる点であらうか。

この出來町にはその昔広大な敷地を持つ尾張徳川家の下屋敷があつたのだが、その屋敷跡に築かれたものに私立公園の徳川園がある。徳川園は、その中に有名な徳川美術館があるので知られてゐる。徳川美術館には尾張徳川家に傳へられる重宝や国宝の『源氏物語絵巻』が納められてゐるのだが、徳川園の中には他に、家康から藩祖義直が譲り受けた澤山の書物を納めた蓬左文庫といふ図書館や、江戸時代の大名庭園を再現した池泉廻遊式の日本庭園もあり、ここは一つの観光スポツトになつてゐるのである。

そして、今年の天王祭の本楽の日には、その徳川園の中に四輌の山車が勢揃ひしたのであつた(筒井町の神皇車だけは事情があつて参加しなかつた)。筒井町や出來町の山車は今までは各町内を曳き廻されるだけであつたのだが、去年から徳川園の中にも曳き入れられるやうになつたのである。何故そのやうなことになつたのかといふと、前にも幾らか述べたやうに尾張徳川家と名古屋の山車は関係が深いからなのである。

Simg_0510 江戸時代初期、藩祖徳川義直によつて東照宮祭が始められて以來、代々の尾張藩主は大体において山車祭りを奨励してゐて、東照宮祭や三之丸天王祭においては名古屋城の三之丸に山車が曳き込まれ、それを殿様がわざわざ御覧になる、などといふことが慣例となつてゐた。そして、そのやうな行事が明治維新まで続いてゐたのである。

したがつて、そのやうなことを考慮すれば、わざわざ徳川園に山車を曳き入れるといふ行為も充分意味のある行為であるといふことが容易に理解できるであらう。つまり、それは三之丸に山車を曳き込んだ昔の祭りを模したものであると同時に、殿様たちが愛した山車祭りを今でもこのやうに続けてゐますよ、といふ今は亡き徳川の殿様たちへのメツセーヂなのでもある。

迷ひ子のアングル迷ふ写真馬鹿(小僧のことです)

神楽小僧

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2006年6月27日 (火)

筒井町出來町天王祭 其の一

Simg_0714_1  西枇杷島で朱藍坊にせがまれて立ち並んでゐる屋台の食べ物をたつぷり奢らされる羽目になつた小僧であつたが、ふうー、おなかがいつぱいになつた、ちよつと一休みしよう、と云ひ出した朱藍坊が六軒町通りの脇に設けてあつたテントの中の椅子に座るなりそのまま大きな鼾をかきながら寝入つてしまつたのを幸ひに、そこから抜け出して、名鉄電車と地下鉄を乗り継いで次に向かつたのが名古屋の東區の筒井町であつた。その日は筒井町とその筒井町と隣り合ふ出來町においても小僧の好きな山車祭りが行はれてゐたからである。

筒井町と出來町の祭りはともに、疫病除けの神である祇園精舎の守護神の牛頭天王(ごずてんわう)に悪疫が流行しないように祈願する、いはゆる天王祭と呼ばれる祭りで、筒井町では二輌、出來町では三輌と合はせて五輌の豪華な山車が六月の最初の週末に盛大に曳き廻される。それらの山車は江戸時代から受け継がれてきた伝統と歴史のあるもので、いづれも尾張地方の山車に特徴的なからくり人形を搭載してをり、名古屋の閑静な下町を、時には優雅に、時には勇壮にと曳き廻されるのである。といふわけで、同じ日に行はれるその二つの祭りは名古屋の初夏を彩る一つの風物詩と云つてよいものだが、小僧も、毎年それが近づくにつれなんとなくそはそはしてしまふ、それほど楽しみにしてゐる祭りなのである。

その二つの天王祭の主役は先に述べたやうに何と云つても五輌の山車だが、その山車のことをまう少し詳しく説明しておくとしよう。筒井町の二輌は神皇車(じんくわうしや)と湯取車(ゆとりぐるま)、出來町の三輌は新出來町(西之切)の鹿子神車(かしかじんしや)と出來町(中之切)の河水車(かすいしや)と古出來町(東之切)の王羲之車(わうぎししや)であるが、戦後新たに再建された王羲之車意外は全て江戸時代に建造されたものといふ。ただ、その江戸時代に造られた古い山車も、その全ては元々その町にあつたものではなく、その昔他の町から買い取つたり、譲り受けたりしたものと云はれてゐる。

話は少々横道に逸れるが、江戸時代、名古屋には三大祭りと云はれるものがあつた。東照宮祭、若宮祭、三之丸天王祭の三つである。そして、それぞれの祭りを豪華絢爛で賑やかなものにしてゐたのが当時そこに曳き出されてゐた澤山の山車であつた。尾張徳川家の代々の藩主は大体において山車祭りが好きだつたのである。といふわけで、戦前まで名古屋には江戸時代から受け継がれてきた澤山の山車があつた。だが、太平洋戦争終結の僅か三箇月余り前の空襲によつてその多くが焼失してしまひ、それまで続けられてゐた東照宮祭、若宮祭は必然的に寂れてしまつた(三之丸天王祭は明治になつて中止された)。戦争によつて大きな痛手を被つた町は祭りどころではなかつたから、戦災を免れた山車もその多くは廃棄されたり何処かへ賣り飛ばされてしまつた。

Simg_0695 つまり、名古屋の由緒ある山車祭りは戦争によつて壊滅的状態に追ひ遣られてしまつたのである。だが、幸ひにも筒井町や出來町の山車祭りはそこから生き残り、様々な困難を乗り越えて今も続けられてゐる。そのやうな意味では大変貴重な祭りと云へるだらう。

最近は都会の空洞化、核家族化によつて都会の祭りを継続することがだんだんと困難になつてきてゐる。また、なんとかフエステイバルとか、なんとか祭りとか、訳の判らない商業主義的な祭りが多く催される一方で本來の祭りが蔑ろにされることが多くなつてきてゐる。そのやうな状況の中、筒井町や出來町では、現代人の生活から遠く離れていかうとする祭りが懸命に、それを手繰り寄せるやうにして続けられてゐるのである。

山車提灯闇に溢れて桃のごと  神楽小僧

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2006年6月16日 (金)

西枇杷島まつり 其の三

Simg_0156  といふわけで、朱藍坊に世話になつた小僧はそれからといふもの朱藍坊に頭が上がらず、その日も渋々朱藍坊の要求を聞き入れて二人で六軒町通りの屋台店を巡ることになつたのだが、朱藍坊の食欲は異常なほど旺盛で、焼きそばに始まつて、焼き鳥、フランクフルト、イカ焼き、クレープ、と喰ふこと、喰ふこと、金を払ふ小僧はほとほと困り果ててしまつた。

そこで、小僧は何とかして朱藍坊から離れようと密かにその機會を窺つてゐたのだが、程無くその機會はやつてきて小僧は大いに喜ぶことになつた。屋台を眺めて廻つてゐるうちに二人は山車の前方を持ち上げて方向転換する、所謂『どんてん』が行はれてゐる場面に出くはしたのだが、その時朱藍坊はその勇壮な光景を見るのに夢中になつてしまつたからであつた。そこで、小僧は、これ幸ひ、この機會を逃す手は無い、と人込みに紛れてその場から逃れようとした。

だが、悪いことはできないものである、丁度その時、小僧が人込みを掻き分けて進んで行かうとする方向から後続の山車が急に迫つてきて、それを慌てて避けようとした周りの群集によつて小僧は傍らの屋台に向かつて突然突き飛ばされてしまつたのであつた。小僧はたこ焼きを賣つてゐる屋台に勢ひよくドスンとぶつかつて、それからバタンと地面に倒れたのだが、ぶつかつた反動で屋台の上からタコの細切れが澤山入つてゐるバツト皿が落ちてきて、それが小僧の顔を直撃するといふ有様であつた。

「とほほ、何でかうなるの?」

と小僧が萩本欽一が云ふやうなことを云ひながらそこから立ち上がると、騒動を知つて駆けつけてきた朱藍坊が小僧の眼の前に立つてゐた。
「大丈夫か、小僧よ!?」
「ああ、大丈夫だ。ちよつと転んだだけだ」
「どうやらたこ焼き屋に倒れこんだやうだな、お前の顔にタコが澤山くつついてゐるではにやあか」
「さうなんだよ、こんな目に遭ふのはまうタコさんだ」
「そんな駄洒落を云つとる場合ではにやあだろ」
Simg_0173 「へへ、だが、タコの足には吸盤が附いてゐる所為か、かうやつて顔にタコがいつぱいくつついてゐるとなんだか妙に氣持ちがよい。清涼感もあるしな」
「さうか、それはちよつとした発見だな」
「今なんと云つた?」
「発見と云つたんだわ」
「いや、ハツケンではない、ここはロツケン(六軒)だ」

猛練習ふと思ひ出すラムネかな  神楽小僧
(炎天下の部活練習が終はつた時に飲んだラムネの味が今だに忘れられない小僧である)
(了)

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2006年6月15日 (木)

西枇杷島まつり 其の二

Simg_0143 その朱藍坊、いつもは着流しの上に父親の形見と本人が云ふ戦前行はれてゐた名古屋の東照宮祭の祭り半纏を羽織つてゐるのだが、その時は浴衣に下駄といふ恰好で、
「西枇杷島まつりのポスターに『浴衣を着て花火を見に行かう』とあつたから、オレもこのやうな恰好をしてやつてきたといふわけだわ。どうでや、浴衣姿のオレも満更ではにやあだろ。だが、色男がこのやうな粋な恰好をしとるもんだから、先程から女の子に限らず擦れ違ふ奴がみんなこのオレをヂロヂロ見るんだわ、だから少し照れくさくてな、ヒヒヒヒ」
などと上機嫌であつた。

だが、その朱藍坊の着てゐる浴衣をよく見ると、それは白地に藍色の花模様があしらつてはあつたが、一眼で安物と判るやうな代物で、そのうへ下前には斜めに『ビヂネスホテル助六』と大きく染め抜いてあるのが見えた。そこで小僧はその浴衣は朱藍坊がその辺の安いビヂネスホテルからくすねてきたものだと察したのだが、それと同時に、これでは擦れ違ふ人たちが朱藍坊をヂロヂロ見るのも無理は無い、と独り納得したのであつた。

「ところで、小僧よ、オレは腹が減つてをる。だから、その辺の屋台で何かおごつてくれんか? できれば、オレは焼きそばがよいのだが、それと焼き鳥もな? そして、デザートにバナナチヨコなどがあればもつとよいのだが」
「やはり、さうきたか。お前はオイラの顔を見るといつも『何かおごつてくれ』ではないか」
「ヒヒ、まあ、さう云ふな。オレとお前の仲ではないか」

小僧は朱藍坊の願ひを聞いてやらないわけにはいかなかつた。何故なら小僧は朱藍坊に借りがあつたからである。二、三年前のことであつたらうか、やはり同じやうに西枇杷島や東區の天王祭を見物するために名古屋を訪れた小僧であつたが、一日早く名古屋に着いて名古屋競輪場で遊んだことがあつた。パートの仕事の給料が幾らか貯まつたから、たまにはギヤンブルで運試しをしてみるか、などと思つたからであつた。だが、その時の戦績は散々、どのレースも小僧の予想に反した展開となつて、小僧の買つた車券は全て紙屑になり果てるといふ具合であつた。そこで、熱くなつた小僧は残つてゐる金を全て 最終レースに注ぎ込むといふ勝負に出たのだが、それも完全に外れてしまひ、小僧は敢へ無くすつてんてんになつてしまつたのであつた。

Simg_0167jpg3_1 そこで、食事をする金も無い小僧はすつかり腹をすかして名古屋の町をうろうろしてゐたのだが、その時助けてくれたのが朱藍坊であつた。予てから小僧と知り合ひの仲であつた朱藍坊は、筒井町の辺りでばつたり出逢つた小僧から話を聞くと、オレに任せとけ、と云ふなり直ぐ様筒井町や出來町の祭り宿に出向き、日頃親しくしてゐる祭り関係者から食べ物を澤山頂いてきて小僧にそれを分け与へてくれたのであつた。

立ち退きし街を一つの山車が行き  神楽小僧

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2006年6月 7日 (水)

西枇杷島まつり 其の一

Simg_0129_2先日、小僧は再び名古屋方面に遠征して、西枇杷島や名古屋の山車祭りを見物してきた。そこで、忘れないうちにその時小僧が見聞したことなどをここに書いておかうと思ふ。

小僧がまづ最初に訪れたのが名古屋の北西に隣接する清須市の西枇杷島町であつた。例によつて『ドリーム号』といふ名称にかなりの違和感が感じられる夜行の高速バスを新宿から利用した小僧が、到着した名古屋で駅を出る度にチンチンといふ音が鳴る名鉄の普通に乗り、三つ目の西枇杷島駅で降りてから、てくてく歩いて澤山の屋台店が立ち並んでゐる西枇杷島の六軒町通りに着いたのは六月三日の午後も二時にならうかといふ頃であつた。

実を云ふと、ドリーム号は朝の六時半頃に名古屋に着いてゐて、小僧はその日はもつと早く西枇杷島に來られたのだが、バスの中でよく眠れなかつたこともあつて、名古屋に着くなり、山車が動くまでにはまだ時間がある、それまでまう少し寝るとしよう、と駅裏の安いサウナに入り、そこで一風呂浴びて横になつたのが拙かつた、つひ寝過ごしてしまひ、眼が覚めた時には時計の針は既に正午を大幅に廻つてゐたといふわけであつた。

といふことで、かなりの時間を無駄にした小僧であつたが、西枇杷島に着くと、近くを流れる庄内川に大きな堤防ができる関係から多くの家が立ち退いて風景ががらつと変はつてしまつた問屋町辺りはともかく、六軒町の本筋通りは、思つた通り、既に多くの祭りの見物人で賑はつてゐて、五輌ある山車のうちの三輌が威勢のよいお囃子を奏でながら、初夏の強い日差しと屋台の鉄板の熱によつて蒸されてゐるその通りの混雑の中に大勢の曳き手を従へて繰り出してゐるのが見えた。そこで、山車が蔵を出る時の儀式から見たかつたのだが、やはり來るのが遅かつたか、などと小僧が寝過ごしたことを後悔してゐると、小僧の眼の前にぬつと顔を突き出した者が居る。

「神楽小僧よ、やつとかめだにやあか」

Simg_0136_3と云ひながら、真つ赤な顔をした酒の匂ひのぷんぷんとする男が小僧の前に現れてにやりと笑つたのだが、それは小僧がよく知つてゐる朱藍坊(しゆらんばう)といふ男であつた。

江戸時代、尾張藩士であつた堀田六林が記した『蓬左狂者傳』に、富豪の家に生まれた ものの『乞食の境界こそおかしけれ』と毎日物もらひの真似をして浮かれ歩く呉藍坊といふ狂人が描かれてゐるが、何を隠さう、この朱藍坊といふ男はその呉藍坊の子孫で、その先祖と同じやうにホームレスの真似をしながら毎日を面白可笑しく暮らしてゐるのである。ただ、先祖と違ふのは祭りと酒が何よりも好きといふところで、御神酒のお流れを何杯も頂戴していつも顔を赤くしてゐるので朱藍坊と呼ばれてゐるのである。そして、そのやうな氣ままな生活をしてゐる所為なのか、若いのか年老ひてゐるのか皆目判らないといふ年齢不詳の不思議な男なのである。因みにその朱藍坊の発した『やつとかめ(八十日目)』といふ言葉は名古屋弁で、『久し振り』といふ意味である。

駅を発つ電車睨みて汗ぬぐひ  神楽小僧

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2006年6月 6日 (火)

熱田神宮尚武祭

Simg_0906 二〇〇六年六月五日、名古屋の熱田神宮を訪れて俗に尚武祭と呼ばれる例祭を見物したが、その時境内の能楽殿で奉納能が催されてゐた。そして、その時小僧は シテ(主演)を女性が演じる能を初めて眼にしたのであつた。因みに、写真の演目は『花月』(金剛流)である。尚、カメラ撮影は禁止されてゐなかつた。

尚武祭女は能を舞ひにけり 神楽小僧

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2006年5月27日 (土)

浅草三社祭 其の三

Simg_0115_1浅草神社の神楽殿で芸者さんたちの奉納舞踊を堪能した小僧だが、それを観終へると、厳かな巫女さんの踊りではなく、神社の神楽殿でこのやうな色つぽい踊りが観られるとは、流石に浅草は違ふなあ、と変なところで感心したのであつた。浅草と云へば、『江戸つ子』『下町』などといふ言葉が直ぐ頭に浮かぶが、やはりそこに住んでゐる人には捌けた人が多いのだらう、そして、その下町の浅草でサンバカーニバルやヂヤズコンテストなどの洒落たイベントが毎年催されてゐることを考へると、その人たちは意外に新しいもの好きであり、祭りが本当に好きなその性格から、町が活氣づくならなんでもやつてやらうといふ心意氣に溢れてゐるのだらう、いづれにしても、浅草といふ町は他の東京の町とはかなり違ふやうな氣がする、などと小僧はその時思つたのであつた。

それはさておき、その芸者さんたちの舞踊に続いて地元のグループによる太鼓の演奏が神楽殿の側の特設ステーヂで行はれたのだが、これもまた浅草の住民の元氣のよさが感じられるやうな、熱氣溢れる素晴らしい演奏で、境内を騒がせた失敗があつたとは云へ、その日は小僧にとつて予想外に収穫の多い、満足すべき一日であつた。

と云ひたいところだが、一つ残念であつたのが、太鼓の演奏が終はるなり突然激しい雨に襲はれたことで、そのやうなことになるとは予想できずに傘を持つてきてゐなかつた小僧は暫くの間雨宿りを余儀無くされたのであつた。通り雨とは云へ、その雨はなかなか降り止まず、浅草寺の本堂に逃れた小僧はその中の回廊に大勢の見物客と一緒に足留めを喰らふ羽目になつたのだが、無情にも本堂は五時になつて閉められてしまひ、やむなく皆と一緒に雨が容赦なく降りつづく外に出なければならなかつたのであつた。

だが、本堂の出口から外に出るなり、「傘があるよ~ん!、傘はいらんかねえ~!、いつぽんよんひやくえ~ん!」といふ大きな声が聞こえた。小僧が辺りを見廻すと、境内へ続く石段の降り口で、Tシヤツにジーンズといふ姿の背の低い男が百円シヨツプで賣つてゐるやうな安つぽい傘を数本抱へながら声を嗄らしてゐるのが見えた。そこで小僧は、こんな所で傘を賣るとは、なんといふちやつかりした奴だ、それも一本四百円とは、くそお、足下を見やがつて、と幾分憤慨したのだが、小僧の方に向いたその男の顔を見た途端、あつと驚いた。その男は異様に頭が大きく、おでこが広くて眼が大きい一度見たら忘れられないやうな童顔の持ち主であつたのだが、それは間違ひ無く、小僧の悪友である妖怪の豆腐小僧であつた。

Simg_0122_4 吃驚した小僧がその豆腐小僧に近寄ると、豆腐小僧のはうでも小僧に氣がついたやうであつた。
「これはこれは、こんな所で神楽のアニさんにお眼にかかるとは」
「一体どういふことだ!?豆腐ではなく、こんな所でちやつかり傘を賣つてゐるとは」
「ケケ、そこの屋台でいつものやうに豆腐の味噌田楽を賣つてをつたのでやんすが、雨が降り出したので、かうやつて傘を賣るはうに切り替えたのでやんす。三社祭にはよく雨が降るので、ここに屋台を出す時にはいつも傘を仕入れておくのでやんす。この豆腐小僧もなかなか頭が廻るはうでやんしよ、ケケ」
「さうだつたか、しかし、何処までも抜け目の無い奴だな、お前は」
「ケケ、どちらかと云へば賢いと云つてほしいでやんす。ただ、その分荷物が多くなつて困るでやんす。大きな荷物は香具師の親方に車で運んでもらうからよいのでやんすが、このやうな傘はこの豆腐小僧が豆腐などと一緒に背負つてここまで運んでくるのでやんす、だから苦労するといふわけで」
「フフ、判る、判る、お前はどう見ても力が無ささうだからな」
「ケケ、傘だけに、骨が折れるといふわけで」

夕立や賽銭箱をつい覗き  神楽小僧

(了)

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2006年5月25日 (木)

浅草三社祭 其の二

Simg_0105_1 小僧は最初に三社祭を見物した時、神社が浅草寺の裏にあることを知らなかつたこともあつて、寺の境内に神輿が澤山担ぎ入れられるその光景に奇異な感じを受けたのだが、浅草寺の境内に浅草神社があり、その浅草神社の例祭である三社祭は元々は浅草寺の行事であつたといふことを後に知つて、なるほど、昔は神仏混淆は当たり前だつたからな、考へてみれば不自然なことではない、と直ぐに納得したといふことがあつた。そもそも、浅草神社は浅草寺の本尊である観音菩薩像を隅田川で見つけ発願した三人の功労者を祀つたもので、明治の法令で神仏が分離されるまで三社権現といふ呼び名で浅草寺と一体となつてゐたといふ。

さて、御輿の宮出しが終はると、今度はその浅草神社の神楽殿で浅草周辺の花柳界で活躍する芸妓さんたちの奉納舞踊が行はれるといふので、お座敷でしか見られない芸が只で見られるとは、こりや見逃せないぞ、と小僧はそれを知つたときに小躍りしたのだが、しかし、みんな若い女性だつたらよいが、オバサンばかりだつたらちよつとがつかりだな・・・まてよ、こういふ場所に出てくる芸者さんたちだから、その可能性のはうが強いかもしれない、と思ひ直した。そこで、あまり期待しないで境内の隅にある神楽殿に向かつたのだが、小僧の予想は大外れ、司會に促されて舞台に現れた芸者さんたちは、全部で六人であつたが、皆若いうへに顔もスタイルも一級であつた。

そこで、喜んだ小僧は人を押し退けて舞台の直ぐ前に行き、その美女たちの踊りをたつぷり楽しんだのだが、艶やかな舞ひを披露してゐる芸者さんたちの晴れやかで美しい顔を眺めてゐると、小僧はなんとなく昔のことが思ひ出された。実を云へば、小僧はその芸者さんたちの職場である浅草の花柳界とは幾らか縁があるのである。

Simg_0073_1その昔、小僧はひよんなことから元プロの歌手でレコードも出したことがあるといふ中年のK といふ男と知り合ひになつたことがあつた。このK といふ男はその時ギターを片手に歌の流しの仕事で喰つてゐたのだが、出向くのは専ら浅草、向島界隈の料亭で、お座敷に上がつて旦那衆や芸者さんの歌の伴奏をするのを主な仕事としてゐたのであつた。その頃はカラオケも今のやうに普及してゐなかつたからそのやうな商賣が成り立つてゐたのである。

そして、どういふ経緯でさうなつたのか今となつてははつきり思ひ出せないのだが、とにかく、そのK の誘ひでギターが幾らか弾ける小僧もその後を附いて廻るやうになり、演歌のリクエストがあればK、ポツプス系の歌のリクエストなら小僧といふ具合に役割を分担して次から次へと料亭を巡り、なんだかんだとやたらに歌ひ手である客を褒め上げて御祝儀を澤山引き出すといふ戦術で、二人で大いに稼いだのであつた。

しかし、間も無く余り女性にもてるとは思へないK が馴染みの芸者と駆け落ちをするといふ意外な事件が起き、美味しい仕事を突然失つた小僧は大いに嘆くことになつたのであつた。だが、その時知り合つた芸者の中には小僧が密かに思ひを寄せる女性も居て、小僧はその女性のことをその舞踊ショーの最中に思ひ出してゐたのだが、その小僧の恋の話をすれば又長くなりさうである、それは又の機會にすることにして、話を三社祭に戻すことにしよう。

袴より振袖好む三社かな  神楽小僧

(つづく)

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2006年5月21日 (日)

浅草三社祭

Simg_0012_4二十日の朝は昼近くまで寝過ごしてしまつた小僧、眼が覚めるなり直ぐ様その手をベツドの側にあるテレビのスイツチに伸ばすといふ最早絶対的な習慣となつてしまつた行為に及ぶと、忽ち眼に飛び込んできたのが、東京の初夏の風物詩浅草三社祭(さんじやまつり)が昨日つひに始まりました、といふニユースで、こりやいかん、このところ遠征が続いてゐたので三社祭のことをつひうつかり忘れてしまつた、灯台下暗しとはこのことだ、と慌てて飛び起き、顔も洗はず、そのまま何時買つたかも覚えてゐない黴(かび)の生えたコツペパンを齧(かぢ)りながらアパートを出たのだが、天氣がよかつたとは云へ外は暑いのなんの、JRと地下鉄を乗り継いで浅草の雷門に着いた頃には、駅から続く人波に揉まれてゐた所為もあるのだらう、真夏のやうなムンムンとした暑さを感じるほどで、浅草寺の前の浅草公園に辿り着くなり早速かき氷の屋台を探したのであつた。

屋台は澤山並んでゐたのだが、二箇月ほども訪れる時間を間違へたやうなその暑さに、かき氷や飲料水ならまだよいが焼きそばやたこ焼きを作つ てゐる香具師は大変、こちらまでその熱氣が傳はつてくるやうな熱い鉄板に体を寄せ、汗だくになりながらコテやピツクを動かしてゐて、それを見た小僧は、商賣とは云へ大変だなあ、と思はず同情してしまつたのであつた。

Simg_9950_3  それはさておき、かき氷をまるでビールを飲むやうに一氣に喉に流し込んだ小僧が神輿が集結してゐると思はれる浅草寺の境内に向かふと、思つた通りそこは人で溢れてゐて、「セイヤ!」とか「ソイヤ!」などと云ふ威勢のよい掛け声は聞こえても、その周りを塞いでゐる人たちが邪魔になつて肝心の御神輿が全く見えないといふ有様であつた。

そこで、少し遠廻りして浅草神社の方から浅草寺の本堂に上つたのだが、境内が見渡せるその本堂の正面の廊下にも人がずらつと立ち並んでゐて背の低い小僧には境内がよく見えない、仕方が無いから、こりや、寺には申し訳ないが屋根に登るしかないな、と考へ、そのとほり廊下の柱を傳つて本堂の屋根の上に登らうとすると、途中で少しバランスを崩してしまつた。体勢を立て直さうとして屋根から垂れ下がつてゐる大幕を手で掴んだのだが、これが拙かつた、緩んでゐた大幕が外れ、小僧もその勢ひで柱から落ちてしまひ、下に突き出てゐた屋根の上で弾んだかと思ふと丁度本堂の前に繰り出してゐた神輿の上に体が飛んでしまつたのであつた。

Simg_9981_1 神輿の上に落ちた小僧は必死であつた、その激しく揺れてゐる神輿の上から落ちないやうにと、その上に立つて扇子を振りながら音頭を取つてゐた男にしがみついたのだが、この男、身に附けてゐるのはふんどしだけといふ威勢のよい恰好で、まごついてゐた小僧はその男のふんどしを何氣なく引つ張つてしまつた。する と、なんといふことか、そのふんどしがはらりと解(ほど)け、男の下半身から離れてその神輿を担いでゐた一人の男の頭上に落ちてしまつたではないか。最初は何が起きたのか判らなかつた周りの群集も素つ裸にされた男の下半身を眼にすると皆たまげてしまつた。あつと息を呑んだやうな一瞬の静寂があつたのも束の間、直ちに爆笑とも罵声ともつかぬ歓声が境内中からどつと沸き上がつたのであつた。

青い眼の浴衣乱れてカメラぶれ  神楽小僧

注:この文章は全てフイクシヨンです。

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2006年5月16日 (火)

豊橋神明社の鬼まつり 其の五

Simg_6413_1 巫女さんの『ミコ』を手元の新明解国語辞典で引いてみると、

(一)『神子』神、神社に奉仕し、神楽を舞つたりする未婚の女性。
(二)『巫女』神がかりの状態になつて口寄せすることを職業とする女性。東北地方のイチコやイタコもこの一種。

といふ具合に『神子』と『巫女』の二種類の『ミコ』に分けて記されてゐる。だが、柳田國男の『巫女考』といふ文章を読むと、その根源は一つであり、元々そのやうに區別されるべきものではなかつたといふことが判る。

柳田國男によると、『ミコ』の語源は『御子神(みこがみ)』で、神の子孫と考へられてゐて、最初は諸国を漂白してゐたのだが、機會を見つけてぽつぽつ土着し、次第に只の農民に同化してしまつたのだといふ。その『ミコ』の専らの仕事は国語辞典の中に書かれてゐる『口寄せ』であつたが、生霊や死霊の『口寄せ』ではなく神の『口寄せ』を定職とする『ミコ』も居たさうで、その『ミコ』の仕事の代表的なものに湯立(ゆだて)神事といふものがあつた。

それは神前で湯を沸かし、『ミコ』が笹の葉でその熱湯を身に振りかけて神の仰せを窺ふといふ、禊(みそぎ)と占卜の両方の性格を持つてゐるやうな神事であるが、『ミコ』が精神をこめて熱湯を身に注いでゐると、知らず知らずのうちに心持ちが変はつてきて託宣に適する心理状態になり、終にその口から神意が語られるのだといふ。

しかし、度々そのやうな神事があるわけでもなく、世の中の太平が永く続くやうになると氏子が神託を問ふ機會はますます少なくなり、幾つかの神社を掛け持ちして生計を立ててゐた『ミコ』もその『口寄せ』だけでは喰つて行けなくなつた。そこで、次第に仕事を増やし神社のいろいろな雑務を請け負ふやうになつた。中には農民の仕事を手傳つたり、遊女の真似をするやうな『ミコ』も現れたが、神社の手傳ひをする『ミコ』の中には自分の本來の仕事を忘れてしまふ者も出てくるやうになつた。

Simg_6348_1 と云つたやうなことが柳田國男のその文章に書かれてあつたのだが、その託宣を忘れた『ミコ』が国語辞典の(一)の『神子』で、それが現れるやうになつたあたりから『神子』と『巫女』の二種類の『ミコ』の區別がはつきりとしたものになつたのだらう。そして、時代が進むにつれて『口寄せ』をする(二)の『巫女』はだんだんと減少し、終にはごく僅かなイチコやイ タコを除いて全くと云つてよいほど姿を消してしまひ、結局、現在の女学生がアルバイトでしてゐるやうな種類の『神子』も『巫女』と表記するやうな具合になつてしまつたと云へるだらう。

さて、その『巫女』の話はそれぐらゐにして、鬼まつりのことに話を戻すことにしよう。神明社では正確には『神子』である巫女さんたちの優雅な神楽が終はり、今度は境内で本祭の目玉神事である『赤鬼と天狗のからかひ』のリハーサルが行はれることになつた。

夜神楽や子供は闇で鬼を追ひ  神楽小僧

(つづく)

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2006年5月 5日 (金)

またまた山車祭りを満喫した小僧

Simg_9125_1 世の中現在黄金週間といふことで、人眼を欺くといふよりもお金を幾らか稼いで少しばかり贅澤をしようといふ理由からパートタイムの仕事を始めて一端のフリーターのやうな生活をしてゐる妖怪の小僧も、少しはその恩恵に与ることができたといふところか、少し変則的ながら五月一日から五日までの五日間休みが取れることになり、うきうきしながらも、各地で小僧の好きな山車祭りが澤山催されるこの時期余り金を使はないで祭りを存分に楽しむには何処へ出かけたらよいかとあれこれ考へた結果、高岡、七尾、八尾などの曳山祭りを見てみたいが北陸へ足を延ばすのはちよつとばかり金がかかり過ぎる、その辺りは金を澤山稼いでからといふことにして、まづ外せない亀崎潮干祭を中心に、二日の垂井曳山まつりあたりから美濃や尾張近辺を廻るのがよいだらうといふ結論に至り、一日の朝早く新宿駅から名古屋行きの高速バスに乗つてコストパーフオーマンス重視の黄金週間山車祭り巡り省エネ旅行とも云ふべきものをスタートさせ、一日、二日は美濃の垂井、三日は美濃の竹鼻、尾張の知立、知多の大野、四日は半田の亀崎といふ具合に遽しく巡つて、たつた今バスに揺られて漸く東京に帰つてきたのであつた。

Simg_9794jpg2_3  といふわけで、移動に時間をかけた分祭り見物に当てることができたのは実質三日間と黄金週間とはお世辞にも云へないほど短い期間に為らざるを得なかつたのだが、なんと云つても亀崎潮干祭を天氣のよい日に丸一日楽しめたのは大きな収穫で、そのうへ垂井の子供歌舞伎や竹鼻の子供たちの芸能が予想以上に面白かつたとあれば、今度の旅行は不足も何も 無い充実したものであつたと云つてもよく、実際、この記事を書いてゐる今も、ここの祭りではこんな驚くやうなことがあつた、あそこの祭りではこんな愉快なことがあつた、などと誰彼構はず語りかけないではゐられない、そのやうな祭りの興奮がなかなか冷めやらない状態の小僧なのである。

そこで、今回見物した祭りに関しても、早速にでもこのブログに覚えてゐることからどんどんと書いていきたい、そのやうな氣分なのだが、前回の高山、長浜、知多各地の祭りの見聞記を飛ばすわけにもいかず、かと云つて、順番通りに書いてゐたら潮干祭の記事などいつのことになるやも知れず、もしそれが正月にまでずれたら全くの興醒めといふことで、はてさて、一体どうしたらよいか、足りない頭で大いに悩む小僧であつた。

碧雲よ見たか潮干にたぎる血を(亀崎にて)  神楽小僧 

写真は上から垂井、亀崎。

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2006年5月 1日 (月)

豊橋神明社の鬼まつり 其の四

Simg_6420_1 突然眼の前に現れた子供に化けた狐に神楽の解説をしてもらつた小僧は、なるほど、さうであつたか、と頷きながら、八角形の舞台で繰り広げられてゐる司天師と呼ばれる江戸時代の萬歳師のやうな恰好をした大人たちの奇妙な所作を眺めてゐると、ほどなくその『司天師神楽』は終はり、見物してゐた人たちが拝殿の方に向かはうとするので、次は一体何が始まるのだらうか、と狐が居ると思はれる後ろを振り返ると、先ほどの随分とひねた顔をした子供の姿はまうそこに無かつた。

はて、狐は何処に行つたのだらう?それともオイラは夢を見てゐたのだらうか?とそれこそ狐につままれたやうな顔の小僧であつたが、そのままともかく移動する人たちの後に附いて行くと、拝殿では二人の着飾つた巫女さんが扇子を片手に『浦安の舞』と呼ばれる神楽を厳かに舞つてゐる最中であつた。

Simg_6442_2 小僧は巫女さんのそのやうな舞ひを見ると必ず思ひ出すことがある。それは妖怪の子として生まれて、この世で初めて巫女さんの神楽を見たときのことである。それは故里の犬山にあつた天神様の秋のお祭りの日に境内の小さな舞台で行はれた、小さな女の子の巫 女がたつたひとりで鈴を鳴らしながら舞台を行つたり來たりする、そのやうな簡単な所作を繰り返すだけの神楽であつたのだが、その時の巫女は十歳くらゐの女の子であつたら うか、少し化粧を施した顔が子供であつた小僧には神々しいと云つてもよいくらゐ美しいものに見え、また実際にその子は飛び切り美しかつたのだらう、ちよつとした仕草にも少し異質ながら女の色氣が感じられるといふ具合で、その時初めて小僧は恋心といふものを知つたのであつた。そして、その時の甘酸つぱい印象は今も強く心に残つてゐるのである。

鼻先に鼓転がり里神楽  神楽小僧
(つづく)

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2006年4月10日 (月)

豊橋神明社の鬼まつり 其の三

Simg_6405 子供にしては随分ひねた顔をしてゐるな、と思ひながら「一体、オイラに何の用だ?」と小僧が訊ねると、その子供の口からはこれまた子供には似合はぬしはがれた声が発せられた。
「お前は妖怪ぢやな。な、さうぢやろ?」
「よ、妖怪、一体なんのことだ?」
「しらばつくれんでもよい、そんな人間のやうな恰好をしてをつても、オレの眼は誤魔化されんぞ、ヒヒ」
「バレたか、だが、オイラが妖怪だと見破ることのできる子供などは居ないはず、さてはお前は人間ではないな、全体お前は何者だ!?」

「ヒヒ、その通り、オレは人間ではない。オレはな、ここの社に古くから住んでをる狐ぢや」
「狐?すると狐が子供に化けてゐるといふことか。だが、その狐がオイラに一体何用だ?」
「うむ、お前は今そこで演じられてをる神楽の所作のことをあれこれ人に訊ねてをつたであらう?」
「さてはオイラをずつと観察してゐたな。オイラは妖怪だが怪しい者ではない。ただ、祭りが好きなだけだ。だから、かうやつて東京からわざわざやつてきたといふわけだ。だが、余りにも変はつた神楽でな、そこで、その所作の意味を人に訊ねたのだが、誰も知らないやうで、判らないとなるとますますそれを知りたくなるといふもんだ。だが、それがどうした?」

「うむ、そこで、オレが親切にも教へてやらうといふわけぢや。最初に子供たちが行つたのは『ポンテンザラの田楽』と云つてな、手にしてゐたのは拍板といふもので、あれを鳴らすことによつて神楽の舞ひの音調べ、つまり予行演習を行つたといふわけぢや」
Simg_6340_1 「なるほど、だが、そのポンテンザルといふのは一体なんだ?天ざるなら大好物だからよく知つてゐるが」
「ポンテンザルではない、ボンテンザラぢや。拍板の音がそのやうに聞こえるところからさ う呼ばれるやうになつたのぢやよ。そして、次に鼓を持つた二人の男たち、これを司天師と呼んでをるが、この司天師たちが今行つてをる所作を『司天師神楽』と云つてな、なにも相撲取りのやうに四股を踏んでをるわけではない、高天原に現れた暴ぶる神が貯蔵してある穀物を撒き散らしたりして悪戯をするのを懲らしめようとした神がその暴ぶる神と戦つた末に傷ついてびつこになつた傳説を踏まへ、びつこを引きながら、時にはつんのめつたりよろよろしたりして面白く神楽を舞つてをるといふわけぢや」

踏みて知る夜の社の石並べ  神楽小僧
(つづく)

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2006年3月26日 (日)

豊橋神明社の鬼まつり 其の二

Simg_6366 どのやうなところが変はつてゐたのかといふと、それはまづ子供たちの所作で、舞台の中央に向き合ひながら二列に並んだ彼等は全員小さい拍子木を簾状に束ねた楽器のやうなものを手にしてゐたのだが、突然立つたり座つたりする動作を始めたかと思ふと、大人たちの小鼓に合はせて、それを鼻の辺りで、あたかも南京玉すだれを操つるやうにして引つ張つたり曲げたりしながら、シヤンシヤンといふ乾いた響きの音を鳴らしたり止めたりし始めたから、眼を凝らしてそれを眺めてゐた小僧も、歴史のある祭りの神事だからその所作には何か意味があるのだらう、しかし、ちよつとばかりミステリアスではある、と思つたのであつた。だが、それはまだよいとして、続いて行はれた大人たちの所作が、これがまたそれに輪をかけて奇妙なものであつた。

二人の大人が十徳に袴といふ装束で小鼓を手にしてゐて、さながら三河萬歳の太夫と才蔵のやうな恰好であつたのだが、この二人が代はる代はる舞台の中央に出てきて演じた所作は、小鼓を打ち鳴らした後、相撲取りが四股を踏むやうな恰好で片足を大きく振り上げ、その足で思ひ切り床を踏んづけようとするが、それはどういふわけか空振りを喰ひ、勢ひ余つた体は前にどつとつんのめる、と云つたやうなもので、その動作だけを何度も繰り返すのであつた。

Simg_6402 といふわけで、この一連の所作には一体どういふ意味があるのだらう、と小僧は好奇心を 大いに掻き立てられ、近くに居た地元の人らしき年配の人々に次から次へと訊ねたのだが、誰もが笑つて首を振るだけで、残念ながらその答へを引き出すことはできなかつた。そこで、ならば神事が終はるのを待つて演じてゐる人たちに訊いてみるかと小僧が考へてゐると、後ろから背中を叩く者が居る。小僧が振り返ると、そこには法被を着た小学生くらゐの坊主頭の男の子が立つてゐたのだが、その顔には子供らしからぬにやにやとした薄氣味の悪い笑みが浮かんでゐた。

春宵に神の出て舞ふ鼓かな  神楽小僧

(つづく)

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2006年3月10日 (金)

豊橋神明社の鬼まつり

Simg_6361 今から少し前の話で恐縮だが、二月十日、十一日の二日間、小僧は愛知県の豊橋市まで出向いて、その八町通にある安久美神戸(あくみかんべ)神明社の祭礼、通称『鬼まつり』を見物したので、今度はその話をしよう。詳しいことは判らないのだが、千年以上も前から行はれてゐるといふ豊橋神明社の鬼まつりは国の重要無形民俗文化財にも指定されてゐるほどの由緒のある祭りなので、小僧も一度は見ておきたいと常々思つてゐたのだが、今回実際に見物してみると、なるほどその祭りは面白くて興味深い神事の連続で、時節がらこれはといふ祭りが無くて欲求不満が募つてゐた小僧も久し振りに祭りらしい祭りが堪能できたのであつた。

宵宮祭の行はれる十日は新幹線は高くつくので豊橋まで東名高速のバスを利用した小僧であつたが、連休前といふことからなのか大きな事故があつたからといふことなのか途中は大渋滞、豊橋に着いた頃には既に暗くなつてゐて、慣れない町をうろうろしながら豊橋公園の近くにある神明社に辿り着いたのは七時を幾らか過ぎた頃であつたらうか、鳥居をくぐり、暗い境内の中を玉砂利を踏んで進んで行くと、ライトに照らされて一際明るくなつた所が奥の本殿の前にあり、そこに八角形の形をした舞台が設けられてゐて、その上では既に宵宮祭の神事が執り行はれてゐた。

Simg_6406jpgtrm_1 それを認めた小僧が、鬼まつりとは一体どんな祭りなのだらう、と勢ひ込んでその舞台に駆け寄つて行くと、宵宮の、それも立春を過ぎたとは云へ寒さが充分に残つてゐる夜といふことで見物客はそれほどでもなく、舞台の間近からその神事を眺めることができたのだが、そこで繰り広げられてゐる、お飾りを頭の上に載せて稚児服を着た子供たち数人と江戸時代の萬歳師を彷彿とさせるやうな恰好をした大人二人の、それぞれ木の簾のやうな楽器や鼓を手にして行ふその神事はなんとも奇妙な、失礼、変はつたもので、一つ一つの所作には一体どういふ意味があるのだらうかと、小僧は大いに頭を悩ませたのであつた。

提灯の温き余寒の神事かな  神楽小僧

(つづく)

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2006年1月 8日 (日)

秩父祭 其の五

Simg_5656 豪華な彫り物や引き幕で飾られた屋台や笠鉾、土地の人々による歌舞伎芝居や曳き踊り、そして澄み切つた夜空を焦がす澤山の花火と、秩父祭に見所は多いのだが、その祭りを他の祭りとは異なつた独特の雰囲氣のあるものに仕立て上げてゐるものとして忘れてはならないのが屋台や笠鉾の中で奏されるお囃子、所謂秩父屋台囃子である。これを抜きにして秩父祭を語るわけにはいかないだらう。

何故なら、秩父の屋台囃子のやうな、芸術性があり、一つの音楽として成り立つてゐて、その演奏にぢつと耳を傾けてゐたいと思ふやうなお囃子はなかなかあるものではないからである。たいてい、祭りのお囃子と云ふと、メロデイやリズムがシムプルで、それはあくまでも祭りのお囃子でしかなく、文化的に価値はあるものの芸術的にどうのかうのと評するやうなものではないのだが、秩父の屋台囃子はそのやうなものと質を異にしてゐて、その優れた音楽性は、能楽の影響を強く受けてゐて芸術性の高い尾張地方の山車囃子に勝るとも劣らないものと云へるだらう。などと、その道の専門家でもない小僧は、秩父の屋台囃子を大いに氣に入つてゐるが故に、一人勝手にさう思ひ込んでゐるのだが、その考へはあながち間違つてゐるとも云へないのではなからうか。

秩父の屋台囃子は普通大太鼓一つ、小太鼓三つ、それに鉦と笛といふ構成で演奏されるのだが、同じ埼玉でも川越や飯能などで演奏される江戸系のお囃子とは全く異なつてゐて、秩父地方独特のお囃子と云つてよいだらう。そして、そのお囃子の主役を務めるのが何と云つても大太鼓で、十六ビートを刻むやうな小太鼓の速くて小氣味よい音に合はせて、土地の若者が極めて熱情的にこれを叩くのだが、この大太鼓だけはその叩き方が最初から決められてゐるわけではなく、そのほとんどが即興によるものだといふ。

もちろん基本的なところは先人の叩き方を踏襲してゐるわけだが、それを充分消化し、自分流のものに練り上げて演奏してゐるところがミソで、それは云ふならばヂヤズと同じやうな即興演奏、つまり自分といふ人間を表現する演奏になつてゐると云つてもよく、だからこそ、そこに人の耳を惹きつける力がある、云ひ換へるならば、そこに秩父の屋台囃子を普通の祭り囃子とは違ふ、芸術性のあるものに成らしめてゐる理由がある、といふことになるのではなからうか。

そのやうなわけで、今回もその聴き応えのある屋台囃子、耳を傾けてゐるこちらのはうまで鼓舞されて胸の中が自然と熱くなるそのお囃子を大いに満喫したいと思つてゐたのだが、今年の秩父祭はめでたいことにと云はうか生憎のことにと云はうか、祭りが始まつて以來最高の人出といふ話もあるくらゐの賑はひで、曳行中の屋台や笠鉾に密着できる機会があまり無かつたことから、充分にそれを聴くことが叶はず、その点においても少々不満の残る結果になつたのであつた。

そこで、來年こそはと思ひつつ、依然として寒空に次から次へと花火が弾けてゐる秩父を後にしたのだが、屋台に轢かれてスルメイカのやうになつた体はふらふらしてゐて思ふやSimg_5720 にコントロールできず、なんとか西武秩父の駅まで辿り着いたまではよかつたが、ぎゆうぎゆう詰めの池袋行き電車に乗つた時に大勢の人によつて更にもみくちやにされ、挙げ句の果てには太つたおばさんに押し倒されたところに酔つ払ひからゲロを浴びせられる始末、いやはや、その日は運氣が最悪の日なのか、とんだところで散々な目に遭つたのであつた。

底冷えの闇を揺るがし太鼓過ぐ  神楽小僧

(了)

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2005年12月27日 (火)

秩父祭 其の四

Simg_5584 誰かがこの小僧の顔を思ひ切り踏んづけたに違ひなかつた。その昔近所の子供たちとドツヂボールをして遊んでゐた時、力のある腕白坊主に横つ面にまともにボールを当てられたことがあつたが、それと同じやうな重い衝撃を突然頬に感じ、その激しい痛さに吃驚して眼を覚ますと、辺りはすつかり暗くなつてゐたが何やら騒然としてゐて、少し離れた所から若い女性たちの何かを叫んでゐる黄色い大きな声が聞こえたかと思ふと、秩父独特の速いリズムで連打するお囃子の太鼓の音がだんだんと近づいてくるのが判つた。焚き火の側で眠りこけてゐる間にいつの間にか時間が経ち、夜祭りが既に始まつてゐたのであつた。

頬をさすりながら立ち上がると、眼の前には澤山の人が立ちはだかつてゐて、丁度その通りにやつてきた祭り屋台を押し合ひ圧し合ひしながら眺めてゐるところであつた。その人込みに遮られて前の通りがよく見えないので、力づくで人を押しのけてその前に出ると、澤山の若い女性が例によつて威勢のよい掛け声を上げながら屋台の曳き綱を引つ張つてゐる光景に出くはしたのであるが、その女性たちの中にはすつかり酩酊状態、何もかも忘れ恍惚となつてゐる人たちも居て、曳き綱と一緒にあちらへふらふらこちらへふらふら、勢ひ余つて、といふよりも見物人をからかつてやらうといふことなのか、最前列に居る小僧たちの懐へ数人が束となつてどつと倒れ込んできて、そのうちの一人は抱きかかへた小僧にうつとりとした眼を向けたかと思ふと、何を思つたのか吃驚してゐる小僧の顔をその柔らかい手で撫で廻していくといふ有様であつた。

といふわけで、随分酔つてゐるとは云へ、若い女性にこんなことをされるとは、はるばる秩父へ來た甲斐があつた、へへへへ、などと鼻の下を長くしてニヤけてゐたのであるが、Simg_5614 よいことは長く続かな いのが世の道理、ぼんやりしてゐるところを突然後ろから強く押され、あつと声を出す間も 無く道路に倒れてゐて、丁度そこへやつて來た屋台の車輪の下敷きになつてしまつたのであつた。したがつて、小僧の頬の一方には靴の跡、まう一方には轍の跡がくつきりとできてしまひ、その後一箇月ほどの間は恥づかしくて外を歩けないといふ情けない有様であつた。

マニキユアに曳き綱委ね屋台行き
神楽小僧

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2005年12月13日 (火)

秩父祭 其の三

Simg_5780 その歌舞伎の舞台はどのやうな仕組みになつてゐるかといふと、一台の祭り屋台の左右に張り出し舞台と呼ばれる簡易式舞台をくつ附けて一つの舞台にしたもので、今回は本町の屋台がその当番になつてゐたのであるが、本町の屋台蔵が境内の奥にあつたことを歌舞伎を観てゐる最中思ひ出して、境内で歌舞伎が催されてゐる理由がその時なんとなく理解できたのであつた。

ところで、その歌舞伎と同じやうに屋台の上で演じられるものに、まう一つ『曳き踊り』と呼ばれる子供たちによる奉納所作があるのだが、これはその日交通規制が解除になる午後十時から団子坂を上つた所にあるお旅所で演じられるといふことで、それが始まる頃には帰りの電車に乗つてゐなければならない小僧としては、それが観られないのが実に残念なことであつた。

実際、昼間の強固な規制に対する憤懣を解消し、思ふ存分のびのびと祭りを楽しまうと思へば、規制に当たる警官が居なくなる午後十時から屋台が各町内に帰る午前二時頃までが狙い目なのであるが、その後始発電車が出るまでの時間底冷えのする秩父の町をうろうろしてゐるわけにもいかないので、いつかは各町内の解散式が終はるまで粘つてやるぞと思ひつつも、その日は我慢するしかないのであつた。

歌舞伎を観た後は再び本町通りに戻り、露店で買つた数個の大判焼きをたいらげながら、各町内屋台の提灯飾りつけを見たのであるが、一つ氣がついたことがあつた。どういふことかといふと、他の関東の山車祭りと同じやうに秩父の屋台の提灯の明かりも電氣によるものだと今まで思ひ込んでゐたのであるが、それは間違ひで、昔からの伝統を守り、その明かりにろうそくを用ゐてゐることに恥づかしながら今回初めて氣がついたのであつた。

小僧は祭り提灯の明かりはろうそくのはうが好ましいと常々思つてゐるから、これには何やらほつとした心地になつたのであるが、専門家の話によると、ろうそくの炎や蛍の光などには『F分の一揺らぎ』と呼ばれる微妙な光の現象があり、これが人の心を癒すことが実証されてゐるさうで、その話をテレビで知つた時、自分がどうしてろうそくに拘るのか、その理由が判つたやうな氣がしたのであつた。

さて、日が暮れると秩父の町は急に冷え込みが厳しくなり、夜祭りが始まるまでどうやつて暇をつぶすかと考へてゐると、とある駐車場の空き地でドラム缶に木材を入れて焚き火Simg_5503 が行はれてゐるのが眼に入つた。これ幸ひと、それを囲んでゐる人たちの仲間に入れてもら ひ、椅子代はりになつてゐるプラスチツクのビールケースに座つて温まつてゐたのであるが、隣に座つてゐた親切なオジさんに冷酒を勧められ、調子に乗つて相手が呆れるほどお代はりを重ねたのがまづかつた、急に眠氣が襲つてきて、地べたに横になつてそのまま深い眠りに落ちてしまつたのであつた。

さ迷ひて祭りの街の焚火かな  神楽小僧

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2005年12月 7日 (水)

秩父祭 其の二

Simg_5358 その日は、西武鉄道の鈍行に二時間余り揺られた後、正午少し前に秩父に着き、まづは腹拵へと、駅前に並んでゐるテント張りの屋台の一角で地元の人たちが作つてゐた一杯四百円のうどんを食べたのだが、これが大変美味しかつた。『おつ切り込みうどん』といふ秩父名物のうどんださうで、山梨の『ほうとううどん』と同じやうなものと云つたら判りやすいか、大根や人参、ごぼうなどの具が澤山入つた汁の中に名古屋のきしめんをまう少し太くしたやうなうどんを 入れて煮込んだもので、その田舎仕立ての素朴な味はひは、体の芯は云ふに及ばず心の中まで温まるやうな、そんな心地よい氣分にさせてくれるものであつた。江戸天下祭の時に日比谷で頂いた二百円の焼きそばを思ひ出したわけではないが、まう少し値段が安ければ、これを食べることができただけでも秩父へ來た甲斐があつた、きつとさう思つたに違ひない。

いつもより混雑してゐる大通りで上町屋台、中町屋台、中近笠鉾を眺めてから秩父神社に足を運ぶと、これもいつもより人の多い境内には、思つた通り宮地屋台と下郷笠鉾の、その動く陽明門と形容されるやうな美しい姿を認めることができたのだが、どういふわけか、初めて訪れた一昨年とは異なつて、その境内には秩父歌舞伎の舞台が設へてあつた。秩父神社の境内で歌舞伎を演じるのが本來のやり方かどうかは判らないが、一昨年は中町の家電量販店の前でそれが催され、平日といふことはあつたにせよ、観客も今回のやうに多くなく、ゆつくり観られたことを思ふと、澤山の人が詰め掛けてゐる境内で、後ろのはうからしかその歌舞伎を観られないのは実に残念なことであつた。

Simg_5391 それはともかく、神社の奥の拝殿にお参りしてから境内に戻ると歌舞伎は既に始まつてゐて、最初の出し物は『白浪五人男』であつたが、なにも失礼なことを云ふつもりは無く、これは親しみを込めて云ふのだが、どさ廻りの旅役者のそれよりももつと垢抜けてゐないと云へばよいか、前回観た時と同じやうに芝居を演じる地元の若衆たちの所作には少し間の抜けたところがあり、そのやうななんとなくお笑ひ芸人のやうな仕草から本來の黙阿弥の台本には無いギヤグが飛び出した時には思はず笑つてしまつたのであつた。

大根をたくさんねだりうどん汁  神楽小僧

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2005年12月 5日 (月)

秩父祭 其の一

Simg_5565 十二月三日は秩父祭を楽しんできた。と云つても満喫してきたわけではない。少し高級なケーキ屋さんに入り、なけなしの五百円で何か食べさせてくれと云つたところ、出てきたのがイチゴが一つ乗つかつただけの小さなシヨートケーキ。コーヒーは飲ませてもらへず、そのケーキを食べ終はるか終はらないうちに「まう閉店です」といふウエイトレスの声、シヨーウインドウの中の売れ残つた美味しさうなケーキの幾つかを横目に追ひ出されるやうにして店を出てきた、その時の氣分と云つたらよいか、その祭り見物の満足度は決して充分なものではなかつた。

だが、さうは云つても、そのシヨートケーキは小さいながらも決してまずいものではなく、どちらかと云へば、大変美味しかつた、いや、飛び抜けて美味しかつた、さう云つてもよい。したがつて、最初に秩父祭を楽しんできたと云つたが、なんだかんだと不満は残つたにせよ、さう表現しても概ね間違ひではないであらう。

事前の天氣予報によると秩父地方は山間といふこともあつて晴れだがかなり冷え込むといふことで厚着をして出かけたのだが、やはり日が落ちてからの寒さは相当なもので、手袋を忘れたのを悔やむほど手がかぢかんだのであつた。だが、肝心の祭りは週末といふこともあつて大変な人出の中、大いに賑はつたのであつた。昼間はさうでもなかつたのだが夜になると、秩父神社や本町通りは人、人、人で埋め尽くされ、このやうなそれほど大きくもない山間の町に何処から人が集まつてきたのであらうかと思ふほどであつた。

しかし、その混雑ぶりに辟易したのも事実である。日本三大 曳山祭りと地元の人たちが自慢するのも充分納得できるほど、その祭りは有名であり人氣 があるのだなと感心するSimg_5669 反面、確かにそれは豪華絢爛な山車祭りで、祭り好きの人を大いに魅了するのは判るのだが、まう少し人出が少なく、規制もこのやうに厳しくなかつたらもつと祭りが楽しめるのに、などと自分勝手とは承知しながらも、そのやうなことを全く前に進まない人波とその前方でこちらの方を睨んでゐる澤山の警官を前にして思つたのであつた。

冬花火消えて震へる星一つ  神楽小僧

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2005年11月27日 (日)

續飯能まつり

Sre0049 午後三時から山車のお囃子の披露があるといふので、その場所になつてゐる八幡神社に向かつたのだが、静かな裏道を通つて行くと何処からかお囃子が聞こえてきた。音のする狭い路地の方に寄り道すると、思つたとほり、そこで祭りの半纏を着た人たちを澤山引き連れて町内廻りをしてゐる底抜け屋台に出くはした。

底抜け屋台は文字どほり底が抜けてゐる屋台で、中で笛を吹いたり太鼓を叩いたりする人は立つたまま、屋台と一緒になつて歩きながら移動するのである。そのやうな一風変はつた祭り屋台である底抜け屋台は江戸時代後期、江戸の天下祭に曳き出されたのがその始まりと云はれてゐて、形や造りは違つてゐるが、飯能の底抜け屋台もきつとその流れを引き継いだものなのであらう。『底抜け』と云ふと、そこには何かユーモラスな響きがあるのだが、飯能の底抜け屋台が子供たちを先頭にして一軒一軒挨拶して廻つて行く光景には実際そのやうな愉快で楽しいところも感じられて、それを初めて見た人の中には思はず微笑を洩らしてしまふ人もゐるに違ひない。

その底抜け屋台に別れを告げて八幡神社に向かふと、その境内には人が集まつてゐて、その人々の前には一輌の山車が置いてあつたのだが、その山車の上の囃子台ではお囃子に合はせて獅子舞ひが演じられてゐるところであつた。山車は十輌あるうちの一輌である原町のものであつたが、明治十五年建造といふ歴史を刻んだもので、それが上山に乗せてゐる神武天皇の人形は三代目原舟月の作つたものといふ話であつた。原舟月といふのは関東の祭りではよく聞く名前である。きつと人形作りの名人としてその世界では名を馳せた人なのであらう。

それはともかく、そこで演じられゐたお囃子は江戸神田系のもので、その調子のよいリズSre0050 ムに合はせて小僧もつひ踊り出してしまつたのだが、獅子舞ひの後のひよつとこや狐の 面を被つた演者の踊りも直ぐに終はり、その後は何も無いといふことなので、その八幡神 社の拝殿にお参りした後、大通りや銀座通りに戻り、そこに並んでゐる金魚掬ひや射的の露店を冷やかしたり、食べ物の露店を覗いてゐる若い娘をからかつたりしながら、日が暮れるまでぶらぶらして過ごし、夜の底抜け屋台の曳き廻しを少し見物してから練馬に帰つたのであつた。

賽銭を落として氣づく冬紫陽花 神楽小僧

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2005年11月23日 (水)

飯能まつり

Simg_0490 十一月五日は埼玉県の飯能で飯能まつりの本祭りがあるといふので早速出かけて行つた。西武池袋線の電車で約五十分、正午少し前に飯能に着いたのだが、大通りに澤山の露店が出てゐるものの、祭りの屋台や山車の姿が無い、一体どういふことかと商工会議所前の案内所で訊ねてみると、その日は本祭りではなく前夜祭の日で、パレードや山車の曳き廻しは無く、底抜け屋台の町内廻りだけが行はれるといふ話、自分の見たインターネツトの記事が旧いものであつたといふことにその時漸く氣がついたのであつた。

案内の年配の男性の話に因ると、その日のいちばんの見ものは夜の底抜け屋台の引き合はせといふことで、それまでは随分待たなければならないから、残念だが退き返さうか、と思つたが、初めて飯能の町に來たのだから、少しは町の中を見物してから帰らう、その辺を散策してゐれば、そのうち町内廻りをしてゐる屋台に出遭ふこともあるだらう、あるいは山車蔵にぶつかることもあるかもしれない、と思ひ直して、その案内の人に地図で近くにある名所旧跡を幾つか教へてもらひ、その後直ぐに訪れたのが大通り商店街の外れにある観音寺といふ古刹であつた。

案内の地図にはここに水原秋桜子と芭蕉の句碑が あると記されてゐたから、それは一Sre0048 体どのやうな句なのだらうと興味津々であつたのだが、秋桜子の『むさし野の空真青なる落ち葉かな』といふ句が刻まれた碑はあつても、肝心の芭蕉の句碑は、人ひとり居ない静かな境内をいくら探し廻つても見つけることができなかつた。何処か盲点になつてゐる所があるに違ひない、でなければ地図の間違ひか、などと思つたが、そこにいつまでも居るわけにはいかない、未練を残しながらも次の目的地八幡神社に向かつたのであつた。

桃青の句碑を知らぬか寒椿  神楽小僧
(つづく)

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2005年11月20日 (日)

沼田祇園祭 其の十

Sdsc03439ed_1天狗みこしは巨大な天狗の面を御輿に仕立てたもので、その重さは五百キロ近くになるといふ。家庭を守る女性が担ぎ出すことで家内安全の御利益があると云はれてゐて、それを担ぐのは女性に限られてゐるのだが、その女性の数の多いこと、揃ひの黄色の半纏を身に纏ひ、「わつしよい、わつしよい」と甲高くも威勢のよい掛け声とともに繰り出してきたから、ただでさへ混雑してゐる本町通りは大変な賑はひとなつた。

町の明かりと祭り提灯の見分けもつかない、青い光や白い光、眩い光やぼんやりとした光が澤山錯綜する中、山車のお囃子と御輿を担ぐ人たちの掛け声とそれを取り巻く人たちの喚声が混じり合ひ、一つのうねりのやうなものとなつて小僧の耳の奥を圧迫するのであつた。そのやうに祭りも最高潮になると、じつとしてはゐられないのが小僧で、せつかく沼田まで來たのだから御輿でも担がせてもらはうと、男たちが御輿を担いでゐるところへ飛んで行つたのだが、神輿を取り巻く人の数が多くて担ぎ棒には触れることもできなかつた。

そこで、神輿を担いでゐる男たちの頭の上から御輿の上にと飛んで、担ぎ棒の上でぴよんぴよん飛び跳ねながら「わつしよい、わつしよい」と叫んでゐたのだが、忽ち周りに居た男たちによつてその上から引き摺り下ろされてしまつた。やむなく天狗みこしのはうに向かつたが、そこでも「このエロ野郎!」と女性に蹴飛ばされる始末、半分ふらふらになりながら人込みの中をさ迷つてゐると、後ろから腕を掴む者が居る。誰だ、と振り返るや否や、肝を潰すほど驚いてしまつた。

そこには上之町の山車に飾られてゐた、あの大きい三条小鍛冶宗近の人形が長い槌を手にしてヌツと立つてゐたではないか。
「こ、これは一体どういふことだ」
小僧が唖然としてゐると、その小鍛冶の人形が今度は口を大きく開けて笑ふのであつた。
「ハッハッハッハッハッハ!ハッハッハッハッハッハ!オレは普段小鍛冶の人形に化けてをるが、小鍛冶でもなく、人形でもない。この沼田に古くから住んでをる天狗ぢや!」
「す、すると、須賀神社でオイラに謎をかけてきた天狗は・・・」
「さう、このオレぢや。お前をずつと観察してをつたが、どうやら狼藉を働いてをるやうだな」
「そんなことはない、ほんの少し御輿を担ぎたかつただけだ」
「まあよい、許してやらう。しかし、お前は東京から來たのではなかつたか?そろそろ帰らないと電車が無くなるのではないか、どうぢや?」

小僧が天狗の言葉にはつとして近くの雑貨屋の店の中を覗くと、そこの壁に掛けられてゐる時計の針は八時を廻つてゐた。東京までは四時間ほどかかるからぎりぎりの時間であつた。慌てた小僧がそれから直ぐに沼田の駅に向かつたのは云ふまでもない、天狗の笑ひ声を背中に聴きながら。

雑踏に太鼓の混じる祭あと  神楽小僧

(了)

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2005年11月11日 (金)

續本庄まつり

Sre0021 本庄を訪れるのはこれが初めてといふことで、まづは山車をひととほり見てから、その後金鑚神社を覗くと、拝殿の前に軽トラツクが後ろ向きに止めてあり、その荷台には立派な御輿が一台置いてあるのが見えた。そして、その御輿を乗せたトラツクの前の拝殿では神事が厳かに執り行はれてゐる最中であつた。

ははーん、ここまで車で御輿を運んできて、そのままお祓ひをしてゐるといふわけだな、なんだか妙な光景だが、そのうち威勢のよい男たちが集まつてきて御輿の渡御でも始まるのだらう、とその時は格別何も思はなかつたのだが、山車が神社の前を出発したことに氣づき、それを追つて中仙道に出てから暫くして、山車の横を車が通りますから注意してくださいといふ声に後ろを振り向いて驚いた、先程の軽トラツクがゆつくりこちらに進んで來るのが見えたが、それは後ろに御輿を乗せたままであつた。御輿を担ぐ人が居ないといふことなのであらうか、一体どのやうな事情がそこにあるのか判らなかつたが、自動車による御輿の渡御を見たのはそれが初めてであつた。

それはさておき、本庄の山車は典型的な江戸型で、武内宿禰、太田道灌、加藤清正と云つたそれぞれ立派な人形を上山に飾つてゐて、やはりバツテリーの動力でそれが下にせり込むやうになつてゐるのだが、その日は昼から本降りになつた夕方まで断続的に弱い雨がぽつぽつと降つてくるやうな天氣で、山車の上に人形がその姿を現してゐる時間が大変短かつたのは残念なことであつた。

だが、本庄は東京からは遠く離れてゐることもあつて、都会やその周辺の新興住宅地にあるやうな殺伐とした空氣がそこに感じられず、江戸時代の宿場町の雰囲氣が今だに残つてゐるやうな土地柄のせいか、本庄まつりは近寄り難いところの一切無いインチメイトなもので、祭りに参加してゐる人たちだけでなく、山車の後に附いてゐる警官まで屈託の無い笑顔を浮かべてゐるのが印象的であつた。

夜の曳き廻しも見たかつたのだが、暗くなつてからは雨も強くなり、うどんを啜つたりコーヒーを飲んだりして暫く待つてはみたものの止みさうになく、少々寒くなつてきたこともあつて仕方無く本庄を後にしたのであつた。

山車は出ず延びたうどんと秋の雨(うどんもダシが効いてゐなかつた) 神楽小僧

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2005年11月 6日 (日)

本庄まつり

Sre0019十一月三日(文化の日)は本庄まつりを見物するために埼玉県の本庄を訪れた。その昔中仙道の宿場町として栄えた本庄には江戸型の山車が十輌あり、そのほとんどが明治から大正にかけて建造されたもので市の文化財に指定されてゐる。

そして、金鑚(かなさな)神社の例大祭の日には町中を盛大に曳き廻され、その祭りは『北関東随一の山車祭り』と地元の人たちが誇りにしてゐるのも納得できるやうな、賑やかで華麗な行事である。

と云つても、そこは埼玉のこと、過去において他の地方に較べて経済的、文化的に劣つてゐた といふ歴史的背景から、その祭りに京都の祇園祭や高山祭りのやうな豪華絢爛さは無い。だがその反面、貴族臭の無い親しみやすい祭りと、それは云へるであらう。

本庄市は埼玉の北のはづれに位置してゐるが、池袋からJR湘南新宿ラインの快速で乗り換へ無しで行けるから交通の便はよい。正午頃に本庄に着くと、曇り空の下、金鑚神社の前に全ての山車が集まつてゐるところであつた。見物客はそれほどの数でもなかつたが、山車の周りは祭り装束を身に纏つた人たちで溢れてゐて熱氣に包まれてゐた。

だが、ここでもやはり女性の存在感は目立つてゐた。と云つても、それは少女や二十歳前後の若い女性がほとんどであつたのだが、手古舞や江戸大工の衣装で着飾つたり、着Sre0020 流しを腰のところではしよつたりと、 それぞれが思ひ思ひの恰好で、陽氣に笑ひながら仲間と話に興じたり、お囃子を演奏したりしてゐる様は辺りを一層華やかにしてゐて、『上州名物、かかあ殿下とからつ風』といふ言葉があるが、北関東で何故女性の力が強いのか、小僧はその理由が幾らか判つたやうな氣がしたのであつた。最近見物した福島二本松の提灯祭りのやうに、女性は山車に触れることもできない祭りがあることを考へると、なんと好対照なことであらう。

囃し止み化粧を直す祭りの子 神楽小僧

(つづく)

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2005年11月 5日 (土)

沼田祇園祭 其の九

Sdsc03436 陽が完全に沈むと沼田の町は俄かに活氣づくことになつた。提灯に火が入れられた山車が次から次へと町の中へ繰り出し、今年の祭りもこの夜で最後と思へば人々の心の中も一層燃え上がるのであらう、昼とは較べものにならないくらゐ熱いお囃子や山車を曳く人たちの掛け声が沼田の町を揺るがすのであつた。

うんうん、オイラも、なんかかう、体中が熱くなつてきたぞ、とその夜祭り独特の、興奮と刹那さが入り混じつた雰囲氣を味はひながら、小僧はいつのまにか人がどつと増えて騒々しくなつた本町通りを山車の幾つかに附いて流れて行くことにした。

だが、一つ残念なのは、沼田の山車も関東のほかの多くの山車祭りと同じやうに、ろうそくではなく山車の後ろに取り附けたバツテリーで提灯の明かりを灯す方法を取つてゐることであつた。ろうそくはその光に温もりがあつて、それが風にゆらゆら揺れるときの提灯はとても情緒があり、そのやうな提灯を澤山飾りつけてゐる山車には、その祭りを今日まで傳へてきた先祖の霊がそこにまとはりついてゐるやうな感じと云へばよいか、そのやうななんとなく神秘的な雰囲氣を感じ取ることができて、それを好む小僧としては、沼田の提灯の明かりがろうそくでないことに不満を感じたのであつた。

しかし、何事も時代とともに変化していくものである、祭りもその例外ではないであらう、本質さへ変はらなければ、その方法の是非を問ふべきではないのかもしれない、と考へ直したのであつた(だとすると、祭りの本質つて、一体何だらう?)。さう納得しなければ、あちこちにある関東の山車祭りを今後見に行きたいと思はなくなるではないか、はつはつはつは、などと思つてゐると、行く手に澤山の若い女性が現れ、細長い提灯をそれぞれ手に持つてこちらに向かつて歩いてくるのが見えた。

そして、それに続いて若い男たち、と云つてもほとんどが三十代、四十代のやうに見えたのだが、その男たちがワツショイ、ワツショイといふ威勢のよい声を上げつつ、大きな御輿を担いでこちらへ進んでこようとしてゐた。それだけではない、眼の前の交差点の横道からは、巨大な天狗の面が澤山の女性たちによつて担がれて出てきたではないか。

提灯は青く群れたり祭街  神楽小僧

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2005年10月31日 (月)

續江戸天下祭 

天下祭も今日(十月三十日)はそのクライマツクス、山車と神輿の日比谷公園から皇居前広場までの曳き廻しといふことで、昨日に続いて、練馬から私鉄、地下鉄を乗り継いで日比谷へ出かけて行つた。曇つてはゐたが雨の心配は無ささうといふことで、開府四百年に当たる一昨年の前回ほどではないが、有楽町界隈は澤山の見物客で賑はつてゐた。祭りのパレードは、江戸木遣りから始まり、流し踊り、神輿、山車の巡行、附祭と続くもので、山車のはうは神田松枝町、九段四丁目、三番町、九段三丁目、石岡市金丸町、八王子市上八日町、熊谷市銀座区、鴨川市諏訪講、川越市連雀町、掛川市横須賀(二輌)、本庄市仲町の合はせて十二輌であつた。今回初めて登場した山車は幾つかあるのだが、その中でも石岡と鴨川の山車は、それぞれ江戸末期や明治の初めに江戸から購入したものを修復したもので、随分長い間故郷を離れてゐたものがやつと里帰りを果たしたといふところであらう。小僧は丸の内仲通りのアルマーニやイヴサンローランと云つた高級ブランド品を売る店が立ち並んでゐる所でパレードを眺めてゐたのだが、そのやうなソフイストケイトされた感じのある場所を、江戸時代の下町の民衆と同じやうな身なりの人々が神輿を担いだり、山車を曳つぱつたりして通る様は、そのコントラストを考へると大変面白いものであつた。

ブランドもはつぴに敵はぬ天下祭  神楽小僧
Simg_0230
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2005年10月30日 (日)

江戸天下祭 

今日(十月二十九日)は午後から日比谷公園に出向き、そこで展示されてゐる、天下祭に曳き廻される山車を見てきた。天氣が心配であつたが、公園に着くや否や、案の定ぽつぽつと雨が降つてきて、夕方からは本降りになり、楽しみにしてゐた宵祭り(噴水の周りで行はれる山車の曳き廻し)もやむなく中止になりさうな氣配、行はれたとしてもビニールシートにすつぽり覆われた山車では興ざめといふことで、暗くなるとすぐに退散したのであつた。だが、実際に眼にするのが二度目となる、遠州横須賀の人々による独特で楽しい一本柱万燈型山車、祢里(ねり)の曳き廻しが見られたことや、見たことも無かつた鴨川や石岡の山車が間近に見られたこと、およびそのお囃子が聴けたことは収穫であつた。さうさう、地元の人たちがバザーで売つてゐた焼きそばとぢやがバタが安くて美味しかつたこと(合はせて二百五十円)も附け加へておきたい。

秋雨や顔蒼白き山車人形  神楽小僧

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2005年10月21日 (金)

沼田祇園祭 其の八

再び本町通りに戻ると、警備詰め所の脇の日陰に木の長椅子が置いてあつたので、歩き疲れた足を休めようと腰を降ろしたのだが、腹が満たされたこともあつて、知らない間にその椅子に横になつて眠りに落ちてしまひ、それからかなりの時間が経つたのに違ひない、突然の騒音に眼を覚ました時には、いつの間にか辺りは夕闇に包まれてゐて、眼の前の路上では、祭り装束を身に纏つた澤山の人たちが輪になつて、ラヂカセから流れる盆踊りの時に唄はれるやうな曲に合はせて、嬉々として踊つてゐるのであつた。
Sdsc03392trm3_1   
まてよ、どうしてオイラはこんな所に居るんだらう、この人たちは一体誰だらう、とその時自分が沼田に來てゐることも忘れて、きよとんとしてゐたのだが、踊つてゐる人たちの後方に山車が一輌置いてあるのに氣がつくと、それまでのことを思ひ出して我に返り、ははーん、夕食の時間といふことで山車の運行も一休み、夜の曳き出しまでの空いた時間、食事を終へた人たちがかうやつて踊つてゐるのだらう、とその時の状況がなんとなく理解できたのであつた。

しかし、踊つてゐるのは年配の人たちと小さい子供たち、それも子供のはうは女の子ばかりで、それが一緒になつて和やかに踊つてゐる様は見るからに微笑ましいものではあつたが、若者の姿が少ないのはやはり寂しい風景であつた。そこで、これは沼田だけに限らず、若者の数が少なくなり高齢化の進むほかの地方都市についても云へることではあるが、都会に出て行つた若者を祭りの時ぐらひは必ず町に呼び戻すやうな工夫がもつと考へられてもよいのではないか、具体的にどのやうな対策を講じればよいのかと問はれると困るのだが、若者の多くが自分たちの祭りに限り無い愛着をもち、町から離れることがあつたとしても、祭りには必ず帰つてこようといふ氣になるのがいちばんよいわけで、さうなれば、祭りも一層盛り上がり、それが町おこしにも繋がつたりするのだから、それにはどうしたらよいか、地元の人たちはもつと考へるべきではないか、有効な対策が必ずあるはずだ、などと、地方の祭りの内情をよく知つてゐるとは云へないのに、沼田の人たちにとつては余計なお世話とも云へることにあれこれ考へを巡らしたのであつた。

はにかみて踊るのも佳し少女らは  神楽小僧

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2005年10月10日 (月)

米原の子供歌舞伎

Sdsc04219 滋賀県米原市米原町の曳山まつりは十月の三連休に行はれる。米原の曳山は全部で三輌であるが、その全ての曳山の上で子供歌舞伎が披露されることになつてゐ る。子供歌舞伎は小学六年生までの男子が演じる一幕ものの歌舞伎芝居で、連休の三日間、昼から夜まで町の各所でそれは披露されるのである。小僧は大津 祭見物の帰りに米原に立ち寄つたのだが、丁度その時眼にしたのが住宅街の狭い路上で行はれてゐる中町松翁山組の子供歌舞伎であつた。演目は繪本太功記の十 段目で、台詞が長いため演じてゐる子供も時々それに詰まつてしまふといふハプニングもあつたのだが、それはそれでなかなかの熱演であつた。写真の撮影日は 二〇〇五年十月九日である。

道端の子供歌舞伎や秋の暮  神楽小僧

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2005年10月 8日 (土)

男たちの祭り

Simg_0595 福島県二本松市の二本松神社の例大祭である『二本松提燈祭り』は毎年十月の四日から六日までの三日間行はれることになつてゐる。最近は人手不足から女性の 参加する祭りが多くなつてゐるが、この祭りは完全に女性禁制である。休憩の時に、とある駐車場で祭りに参加してゐる男たちが『太鼓台』と呼ばれる山車を横 に置いて食事を取つてゐる光景が見られたが、彼等にお茶を注いだりする女性は云ふまでもなく、側で見守つてゐる女性も一人として居なかつた。それほどそれ は徹底されてゐるのである。尚、写真の撮影日は二〇〇五年十月六日である。

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2005年10月 7日 (金)

二本松提燈祭り

Simg_0628 二〇〇五年十月六日、福島県二本松市を訪れて俗に二本松提燈祭りと呼ばれる二本松神社の例大祭を見物した。二本松には七台の『太鼓台』と呼ばれる山車があ るが、日が暮れると約三百の提燈で飾られたその太鼓台が起伏に富んだ歴史のある城下町を情緒たつぷりに練り歩くのである。写真は二本松城の前に三台の太鼓 台が勢揃ひしたところである。尚、提燈は全て和ろうそくが使用されてゐる。

山車提燈城壁染めて燈りけり 神楽小僧

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2005年10月 5日 (水)

有松の山車まつり

名古屋市緑区の『有松絞り』で有名な有松町には江戸時代から傳はる山車祭りがあり、今も十月に盛大に行はれてゐる。山車は全部で三輌であるが、それらの山車が古い商家の残る旧 東海道を曳かれて行く様には何とも云へぬ風情が感じられる。写真は二〇〇三年に撮つたもので、山車を回転させて方向を変へてゐるところだが、男たちが後楫に馬乗りになつて乗つてゐる ところなどはなかなかユーモラスな光景と云へるだらう。尚、この写真に写つてゐない前楫のはうは十人くらゐの男たちによつて肩に担がれてゐるのである。

山車に乗る人に押す人担ぐ人  神楽小僧Spa050074

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2005年10月 3日 (月)

沼田祇園祭 其の七

Sdsc03399 空腹に耐へられなくなつたので、何処か涼しい所で昼ご飯にしようとそば屋か定食屋を探すが、それらしき店がなかなか見つからない、町並みは似てゐるやうでも、このあたりが東京の下町とは違ふところか、と思ひながらぶらぶらしてゐると、通りから脇に入つた所にやつと一軒の喫茶店を見つけて、何か食べるものでもあるだらうと入つてみると、中は空いてゐるうへにエアコンが効いてゐて、炎熱地獄の外と較べると天国のやうであつた。

だが、カレーライスを注文して、四人掛けのテーブルに独り座つてゐると、突然どやどやと法被姿の男たちが澤山入つてきて、瞬く間に客席は埋まつてしまひ、そのほとんどが中年以上の男性であつたが、皆が皆かき氷の注文に、店の中は忽ち陽氣なしやべり声と、シヤリシヤリ、シヤリシヤリといふかき氷を作る機械の忙しない音に満たされてしまつた。

といふことで、その男たちのうち二人が同席することになつて、突然賑やかになつたテーブルでカレーライスを食べてゐたのだが、男たちの前に運ばれてくるかき氷は清涼感たつぷり、いかにも美味しさうで、うーん、食べたいのは山々だが、このうへかき氷を注文したら帰りの電車賃が無くなるしな、と嘆いてゐると、隣に座つた初老の男が隣のテーブルに座つた仲間との話に忙しく、横を向いてかき氷を食べてゐるのに氣がついた。そこで、カレーライスを食べる合ひ間に、少しぐらゐならいいだらう、と自分のスプーンでその男のかき氷を無断で少しづつ頂戴したのだが、「うん?このかき氷、なんかカレーの味がするぞ」といふその男の声に、慌てて席を立ち、勘定もそこそこに外へ出たのであつた。

裏道を抜けて、倉内通りと呼ばれてゐる広い通りに出ると、そこには古い町屋がちらほら残つてゐて、昔の城下町を幾らか偲ばせるやうであつたのだが、それは自分の育つた町の風景に何処と無く似てゐるやうで、そのやうな所に露店が澤山出てゐて、浴衣姿の子供たちがそれらを覗いてゐる光景は、自分の子供時代を思ひ出させるやうな、なんとなく懐かしいものであつた。だが、沼田の町を歩いてゐて感じるのは、都会から離れてゐるほかの町と同様に、やはり若者の数が少ないといふことで、秩父のやうな、祭りの時に澤山の若者が地元に帰つてくる例もあるのを考へると、そのやうな若者で、この沼田の祭りもまう少し盛り上がつてもよいのだが、そんな様子が見られないのは、祭りのために夏休みなどを取つて都会から帰つてこようといふ若者が少ないのだらうか、などと思つたりしたのであつた。

金時を分けし日は去りかき氷  神楽小僧

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2005年9月30日 (金)

岸和田市春木のだんぢり祭

Sdsc03607 二〇〇五年九月十四日、岸和田市春木地区を訪れて勇壮なだんぢり祭りを見物した。だんぢりには溢れるばかりに男たちが乗つてゐたが、彼等はまるでジヤングルジムで遊ぶ子供たちのやうであつた。

だんぢりの上に溢れる無邪氣かな 神楽小僧

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桑名の石取祭

Simg_0403 二〇〇五年八月七日三重県桑名市を訪れて奇祭として有名な石取祭を見物した。祭車に積まれた太鼓や鉦を休み無く打ち鳴らす石取祭は日本一喧しい祭りと云はれてゐる。

月までも揺らす石取祭かな 神楽小僧

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2005年9月22日 (木)

沼田祇園祭 其の六

Dsc03282 沼田の山車は、川越や本庄の山車に似てゐるところからも判るやうに、その形が江戸の祭りに曳き出された山車の影響を受けてゐて、一般的には江戸型の山車と分類されてゐるやうであるが、よく見ると、一層目にある唐破風の屋根の造りや、彫り物の多さなどは秩父地方の屋台の影響を受けてゐるやうに思はれ、それは沼田型山車、あるいは沼田型屋台と呼ぶべきものなのかもしれない。

だが、いづれにしても、現在のやうな山車の形になつたのは大正になつてからで、それまでは今のやうな四本柱の形ではなく、一本柱の上に鉾台を乗せてゐる形で、背も今より随分と高かつたといふ。

本町通りに戻ると、その山車が幾つか既に繰り出してゐて、囃し方の奏でる沼田独特のお囃子と、山車を引つ張る人たちの「わつしよい、わつしよい、」といふ威勢のよい掛け声を聞いた時には、やつと祭りらしい雰囲氣になつてきたと喜んだのであるが、渡辺の綱の人形が乗つてゐる、『ほ久美』(ほ組)と提灯に記された山車にとりあへず附いて行くと、 通りは見物客でごつた返すといふこともなく、警察官に「こら、前に出ちやいかん!」などと規制されることもなく、いかにものんびりとした田舎の町の祭りに浸つてゐるといふ感じであつた。

だが、火焔放射器から発せられた炎のやうな日差しが祭りに参加してゐる人たちの氣勢を殺いでゐるうへに、若い男性たちが都会へ流出して、男性陣の数が少なくなつてゐるのだらうか、山車の中でお囃子を演奏してゐる人も、山車を曳いてゐる人も若い女性や子供ばかりで、役についてゐるオジさんたちは居るものの、血氣盛んな若者たちが山車の周りで酒を飲んで騒いでゐる、そんな大抵の山車祭りにあるやうな熱氣が山車の周辺に今一つ感じられないのであつた。

とは云へ、なにも強いて祭りに荒々しさや熱狂を求めてゐるわけでもなく、このやうなギヤルが主役の山車祭りも、落ち着いた雰囲氣の中に一味違つた華やかさがあつてなかなかよいものだと、若い女性が嫌ひでもない小僧は独り納得したのであつた。

早鉦に祭りの空は鬼と炎え  神楽小僧

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2005年9月17日 (土)

沼田祇園祭 其の五

Dsc03296 「ハッハッハッハッハッハ!よく判つたな。さすが、神楽小僧」
「驚いたな、天狗の傳説は先ほど聞いたところだが、その天狗がまだ生きてをつたとは。しかし、どうしてオイラが神楽小僧だといふことが判つた?」

「沼田の駅でオレがお前を睨んだのを覚えてをらう。電車から降りた時、お前には影ができてをらんかつたから、ははあ、こやつは人間ではなく妖怪に違ひない、祭りを見に來たからには祭りの好きな妖怪、神楽小僧だらうと察してをつたわ」
「なるほど、あの時、天狗の面の眼が一瞬異様な光を放つたと思つたが、やはりあれは本物の天狗の眼だつたか」

「そんなことはどうでもよい。小僧よ、お前が妖怪と判つたからには、このままにしておくわけにはいかぬ。天狗以外の妖怪をオレたち天狗の里、この沼田にのさばらせておくわけにはいかぬのぢや!」
「と、といふと、一体どういふことだ!」

「今直ぐここを立ち去れ!さもなくば、仲間を呼んでお前を叩きのめし、丸めてゴミ焼却炉にでも放り込むぞ!と、本來は云ひたいところだが、この暑い中、このやうな遠い所まで祭り見物にやつて來た者を直ぐに追ひ返して、沼田の天狗は余りにも冷たいと云はれても困る。そこでぢや、お前にチヤンスを与へてやることにする。なぞなぞをまう一つ出してやるから、それを解いたら、今日一日だけはこの沼田で過ごすことを許してやらう、その時は祭りなり何なり存分に楽しむがよい、さういふことぢや。よいか、そのなぞなぞとはこれぢや、たかさごにいがのみはじけどんぐりこ、さて何ぞ?」
「とほほ、なんといふことだ、祭りを見に來たのに、こんな所で天狗となぞなぞ遊びをすることになるとは・・・い、いや、なんでもない、それより今なんと云つた?」

「高砂にいがの実はじけどんぐりこ、ぢや」
「高砂と云へば『まつ』、いがの実は『くり』、どんぐりは『くぬぎ』・・・さうか、判つたぞ!『まつ』と『くり』だから『まつくり』、それから『くぬぎ』、つまり『く』を抜けば、フフ、それはオイラの好きな、ま・・・つ・・・り、さあどうだ!」

「ピンポーン!やれやれ、たちまち当てられてしまつたか。どうやらちよつとばかり易し過ぎたやうだな。仕方が無い、今日だけはこの沼田に立ち入ることを許してやらう。祭りが終はつたら早々にここから退散するのだぞ。それから小僧よ、このなぞなぞはほかで使ふなよ。このオレに著作権があるからな、よいな、ハッハッハッハッハッハ!」
と天狗が笑ふなり、またしてもけやきの高い所にある茂みがザワザワと揺れたが、その音が静まると、それきりけやきの木からは蝉の鳴き声のほかには何も聞こえてこなくなつた。代はりに、町のはうから賑やかなお囃子の音が風に乗つて聞こえてきた。

蝉の声止んで仄かな御神燈  神楽小僧

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2005年9月13日 (火)

沼田祇園祭 其の四

『おぎよん』は須賀神社の例大祭であるが、その神社が直ぐ近くにあるといふことで、小僧は早速そこに足を運ぶことにした。
須賀神社は本町通りの脇道を少し入つた所にあつたのであるが、その境内はそこそこの広さで、夜に御輿の宮入りでも行はれるのか、その周囲には紅白の幕が張られてゐて、照明の取り附けなど、その準備をしてゐる二三人の土地の人の姿が眼に入つた。だが、その人たちと隅のはうで語り合つてゐる一組の若い男女のほかに人影は無く、境内の中は閑散としてゐた。

しかし、その境内の中は町の中よりずつと涼しかつた。何故なら、拝殿の横に立つてゐる二本の大きなけやきの木がそれぞれ空を覆ふやうに長い枝を伸ばしてゐたからで、後に土地の人から聞いた話では、そのうちの一本は大変な樹齢を重ねてゐて、県の天然記念物に指定されてゐるといふことであつた。

Dsc03394_1 それはさておき、拝殿にお参りして、さあ帰らうとすると、何処からか
「小僧!小僧!」
と大きな声で呼ぶのが聞こえるではないか。小僧と云ふからにはオイラのことだらうか、と振り向いて境内の中を見廻したが、そこには誰も居ない。つい先ほどまで境内に居た何人かの人たちもいつの間にか消えて居なくなつてゐたので、はて、今の声は一体なんだつたのだらう、と首を傾げてゐると、今度は
「ハッハッハッハッハッハ!ハッハッハッハッハッハ!」
といふ大きな笑ひ声が辺り一帯に響きわたり、それと同時に頭上でけやきの木の枝が激しく揺れるザワザワザワといふ音がした。

一体何事だ、と吃驚してけやきの木を見上げると、何処にも人の影などは発見できなかつたが、遥か上のはうにある暗い茂みが揺れてゐて、間も無くその辺りから先ほどと同じ呼び声が聞こえてきた 。
「小僧!小僧!」
それは確かにこの小僧を呼んでゐた。そこで、頭の上に落ちて來た何枚かの木の葉を払ひながら、その声のする方に向かつて叫んだ。
「そこに居るのは誰だ!オイラに一体何の用だ!」

すると、直ぐにしはがれたやや甲高い声が返つてきた。
「小僧よ、くもながれかきのきのしたむしがつき、とは何ぞ?」
「はあ?姿も見せず、いきなりオイラに謎をかけようといふわけか?今なんと云つた?」
「雲流れ柿の木の下虫がつき、ぢや」
「雲が流れるのは空、つまり『天』。柿の木の下は『かきくけこ』の『き』の下で『く』。それに虫がつけば『ぐ』になる。その『天』と『ぐ』を繋げば・・・判つた!さては天狗だな、お前は!」

葉風より神の声洩れ大けやき  神楽小僧

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2005年9月10日 (土)

沼田祇園祭 其の三

Dsc03261_1 商店街の入り口にバス停があり、そこに設けられた長椅子が日陰になつてゐるので、そこで一服して、本町通りと呼ばれる目抜き通りを歩いて行つたが、歩道の脇に、作るには随分とお金が掛かつたであらうと思はれる豪華な御輿が一つ飾られてゐるのが眼に附いただけで、山車の姿は無く、人影もまばらであつた。

そこで、この暑さを考へると山車の曳き出しは夕方からといふことなのかもしれない、祭りの最終日で昼間から盛り上がつてゐるのを期待してやつて來たが、どうやらあてが外れたやうだな、と思つてゐると、通り掛かつた空き地に仮設テントのやうなものがあり、その中で祭り装束に身を包んだ少女が二人、昼食を取つてゐるのだらうか、お母さんと一緒に椅子に座つておにぎりをほうばつてゐるのが眼に入つ た。

生來の浅ましくずうずうしい性格から、さう云へばお腹がすいたな、頭を下げて頼んだなら一つ分けてもらへるのではないか、とその家族に近づいて行くと、その空き地の奥は駐車場になつてゐて、その一角に山車蔵があり、『まんど』と土地の人から呼ばれる山車が一輌そこに収まつてゐるのが見えた。

残念ながらおにぎりはまう残つてゐなかつたのであるが、祭りの話を幾らか聞くことが出來て、それによると、山車の曳き出しは一時半から十時まで各町自主運行、天狗みこしの渡御は夕方からで、いづれにしても、祭りが盛り上がるのは夜になつてからといふことであつた。そりや、さうだ、この暑さでは昼間から騒がうといふ氣にはなかなかなれないだらう、小僧は少女たちの日焼けした額に汗が吹き出てゐるのを見ながら納得したのであつた。

日に焼けし顔に米つぶ祭りの子  神楽小僧

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2005年9月 8日 (木)

沼田祇園祭 其の二

改札を出ると、駅前の広いロータリーの向かうに山あひの温泉街のやうな町――事実幾つかの温泉宿と思はれる旅館があつた――が広がつてゐるのが見えたが、その全体が、焼けつくやうな夏の日差しにやられて元氣を無くしてゐるやうな雰囲氣で、祭りをやつてゐるといふ氣配がまるで無い。ロータリーから続く上り坂となつてゐる大通りを歩いて行つたが、御輿や山車の姿は無いし、お囃子の音などが風に乗つて聞こえて來るといふことも無いので、今日は祭りの最終日だつたはずだが、変だな、一体何処で祭りをやつてゐるのだらう、と思つてゐると、一人の中学生ぐらゐの少女がすれ違つた。

そこで、人間に化けた妖怪と、その正体を見破られることはないにしても、少女を誘拐する事件が頻発してゐる最中、ひよつとしてそのやうな怪しい人間と間違はれたりしないであらうかと、おそるおそる呼び止めて祭りのことを訊ねてみると、案に相違した可愛い笑窪のにつこり顔で、
「祭りならこの上のカミマチ(上之町のことか)に行かないと」
と云ひながら指差したのが、大通りを上つて行つた奥に広がりをもつて聳え立つ大きな台地の影であつた。

Dsc03294 「えつ、す、すると、あの山の上に町があるといふことなの?」
事実それは山と云つてもよいやうなもので、小僧が驚くのも無理は無かつた。鬱蒼とした森林が高く盛り上がつて出來たやうな青々とした台地が町の後方に広がつてゐて、その上には何も無いやうに見えたのであるが、実際はその奥に繁華な町が広がつてゐるといふ。

なるほどさうだつたのか、しかし、まいつたな、この暑さの中をあの山の上まで登らなければならないのか、と思つたが、そこまで來たからには引き返すわけにはいかない、そのままその通りを奥まで上つて行き、突き当たりの緑の深い崖の辺りから、上に向かつてカーブを描いてゐる、舗装されてゐるとは云へ勾配が急で幅の無い坂道の、草いきれのする脇の方を、時折通る車に轢かれないやうに注意しながら、えつちらおつちら歩いて行くと、果たしてその上には、祭り提灯と注連縄で飾られた、東京の下町の商店街と少しも変はらないやうな町並みが現れたのであつた。

山道の果てに祭りの丸提灯  神楽小僧

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2005年9月 5日 (月)

沼田祇園祭 其の一

Dsc03291 といふわけで、この祭遊記、最初に紹介するのは、群馬県は沼田の祇園祭、地元では『おぎよん』と呼ばれる山車祭りである。祭りは京都の祇園祭をルーツとする、牛頭天王を祀る須賀神社の祭礼で、毎年八月上旬に行はれることになつてゐる。神輿はもちろん出るが、主役は『まんど』と呼ばれる山車であり、そのまんどが曳かれるやうになつたのは約百五十年前といふから、関東の山車祭りとしては歴史のある祭りと云へるであらう。蛇足ながら、『まんど』は本來『まんどう』であり、おそらく『萬燈』に由來するのではないかと思はれる。

関東近辺で近日中に行はれる祭りで何か面白いのはないか、とインターネツトでそれを調べてゐた時に、その沼田の祭りがちようど行はれてゐることを知り、翌日の朝、寝所(ねぐら)としてゐる東京は練馬の安アパートから目的地へ向かつたのであるが、JRを幾つか乗り継いで、四方を山に囲まれた盆地にある、小さくはないがよく見かける田舎の駅のやうな閑散とした沼田の駅の、夏の太陽がカンカンと照りつけるプラツトホームに降り立つたのは正午を少し過ぎた頃であつた。

出かける時は山間部だから幾らか涼しいのではないかと思つてゐたのであるが、それは大間違ひで、盆地にあるせいか沼田は東京よりも暑いやうに思へた。ほかに電車から降りたのは数人の地元の人らしき人々で、その人たちと一緒に改札口に向かはうとすると、駅舎の壁に赤い顔をした天狗の大きい面が飾つてあるのが見えた。ほお、立派な天狗の面だな、と暫しそれを眺めてゐると、突然それがこちらをギヨロと睨んだやうに思へたから一瞬ドツキリとしたのであるが、同じ壁に貼られてゐる祭りのポスターにも天狗の面は大きく取り上げられてゐたので駅員に訊ねると、沼田には『天狗みこし』といふ大きな神輿があつて、三百人を超える女性によつてそれは担がれ、祭りの中心的存在になつてゐるといふ。

後で土地の人から聞いた話によると、なんでも、沼田にはその昔修行を積んで神通力の並外れて強くなつた天狗が澤山住んでゐたといふ云ひ傳へが残つてゐて、その天狗の面を神輿に仕立て上げたのがその『天狗みこし』といふことであつた。

氣がつけば天狗の里か蝉しぐれ  神楽小僧

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2005年9月 4日 (日)

妖怪も人に負けじとキイたたき

この神楽小僧(かんぐらこぞう)、普段は人間に成りすましてゐることもあつて、今まで人間に妖怪だと氣附かれたといふことがない。その結果、民話や伝説の類に語られることもなければ民俗学者の著作に現れることもない、全く無名の妖怪と成り果ててゐるのだが、実は大昔からこの日本に存在してゐる由緒ある小僧系の妖怪である。

と云つても普通の妖怪ではない。祭りが何よりも好きといふ一風変はつた妖怪なのである。祭りがあると聞けば必ずそこに顔を出し、祭り囃子に合はせて笛を吹いたり踊つたり、御供へ物の饅頭や酒を頂戴したりして、祭り好きの人間と一緒になつて騒ぐのを無上の喜びとしてゐるのである。それ故、自分で云ふのも何だが、この神楽小僧、人間から見れば『無邪氣な愛すべき妖怪』といふことになるのではないだらうか。因みに神楽を『かんぐら』と読むが、それは『かぐら』がなまつたものである。
S_089















そして、この科学の発達した世の中になつても滅びることなく、世間を欺くために人間に姿を変へて東京の郊外に住んでゐるのである。だが、祭り見物だけに飽き足らず、パソコンを何処からかくすねてきて、ネツトサーフインに耽つてゐるうちに、何を血迷つたか、ブログなどといふものに手を染めてしまつた。

そして、今かうやつてパソコンのキイーボードを慣れない手つきで叩いてゐるのであるが、全体どうしてそれを始めようといふ氣になつたのかといふと、それは親友の豆腐小僧と世間話をしてゐる時であつた。インターネツトを覗いてをると、ブログといふものが大流行してをるやうだ、オイラも一つそれをやつてみるか、と心にも無いことをふと漏らした折、作文能力の無いお前がそんなことをしてどうする、それにやつてみたところで、どうせお前のことだからスリーデイズボーイさ、とからかはれてしまつた。そこで、いつも豆腐小僧に馬鹿にされてゐては情けない、たまには見返してやらうではないかといふ氣になつた。

といふわけであるが、それは単なるきつかけと云つてもよい。格好を附けるわけではないが、ブログを始めるにはまう少しまともな理由があつたと云つておかう。豆腐小僧と別れてから、本当にブログを始めたくなつたのである。それは、かう思ふやうになつたからである。

この小僧、普段は世間体を繕ふ必要から人間に姿を変へて仕方無く働いてはゐても、それはフリーターの真似事をしてゐるやうなもので、その辺の人間のやうにあくせく働く必要は全く無く、自慢ぢやないが暇は人に売りたいくらゐたつぷりある。そこで、それにまかせて、見物した祭りのことや、普段感じたこと、見たり聞いたりした面白いことを、あれこれネツトの上に書き綴つたなら、それを見た人間からの反応が全く無いにしても、兼好法師の「あやしうこそものぐるほしけれ」ではないが、それに近い心境に至つて、そこに興趣の一かけらでも見い出せるのではないか、小僧なりに何か得るものがあるのではないか、そんなふうに思つたのである。

だが、どうしたことか、この小僧、かうやつて何も書いてゐないうちから、しまつた、衝動的にブログのページを作つたが、やはり妖怪にはこんなことは似合はない、馬鹿なことをしたものだ、などと後悔の念に捕はれてゐるのである。もとより熱しやすく冷めやすい性格から、それも仕方が無いこととは云へるのであるが、そのやうに甚だ心もとないことなれば、こんなこたあ、まう止めた、と何時なんどきキーボードを畳むやもしれぬと、まづは最初に一言断つておいて、今は胸の内が段々熱くなつてきたのを幸ひに、最近見物して楽しんだ祭りのことを早速ここに書き連ねて、心の中の迷ひに踏ん切りをつけようと思ふ。

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